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zoom RSS 倉敷の街 と 大原總一郎さん

<<   作成日時 : 2012/12/26 21:56   >>

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11月半ばの美術館ツァーで倉敷の街、そして大原美術館に魅了され、ここ1ヶ月はそこで買った2冊の伝記を読みふけった。
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      その1冊は「大原總一郎 ― へこたれない理想主義者」 
        井上太郎著(中公文庫)

大原總一郎。明治42年(1909年)7月29日に生まれ昭和43年(1968年)7月27日永眠。
久々に偉大な人に出会った。

言うまでもなく、大原美術館の主であり、倉敷紡績、倉敷レーヨンの社長であった大原總一郎は、まずは経済人(経営者)であるが、この彼の伝記を読んでいくと、その人間としてスケールの大きさに圧倒されて、しばし呆然の境地にすら陥入った。

私は単に大原美術館と関連して、なぜか彼の名前だけ脳裏の奥に刻み込んできたようだ。何故? こうして伝記を読んで見ると、彼は昭和43年に58歳の若さで亡くなった。そのとき、大学生の私は、きっと大きくマスコミに報じられた彼の死を、感慨深く感じていたに違いない。 私が彼について知っている知識と言えば、美智子皇后の素敵な弟さんが大原總一郎の娘さんと結婚された、というわが青春時代のできごと。

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          総一朗も子どものころまで住んだ大原家住宅

当地を訪れるというのに勉強不足の私は、先日の美しい倉敷の街並みも、「大原美術館は、こんな街にぴったりの芸術の館ね。」と、倉敷のこの白壁の街並みと美術館が、偶然、相性よくマッチしているのだと感心したのだ。
そうではなく、この街は、大原總一郎の祖父、父、と三代にわたる英知と努力によって、近代工業と西洋美術と日本の伝統文化をバランスよく調和させて生み出され維持されてきた街なのである。

私は、近いうちにもう1度倉敷を訪れなければならない。孫次郎や総一朗がその類まれな個性を投影した倉敷に。先月は大原美術館しか見なかったのだ。
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      大原美術館(日本で最初の美術館)昭和5年 by 孫次郎

[ちょっと余談]
ところで、先日倉敷へ行ってホテルの売店に売っていた書物に倉敷を代表するという4人の名前が書かれていた。
孝四郎、孫三郎、寅次郎、總一郎・・・この4人の関係は? 
正解を知ってから笑ってしまったが、ふつう、
長男・總一郎 次男・寅次郎 三男・孫三郎 四男・孝四郎・・・だと思うではないか?!

なんと、これは大原家の三代で 孝四郎→孫三郎→總一郎 と続き、寅次郎は大原美術館設立にも貢献した画家の児島寅次郎で全くの他人。ややこしいなあ〜(笑)

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大原家(右)と大原家別邸(左)から倉敷川挟んで大原美術館を臨む

[ 大原総一郎の輪郭 ]
では大原總一郎という人は・・? と聞かれると、「様々なプロフィールが思い浮かばれるが、彼の本当の姿は、それらの多面性を総合した上に存在する」とこの『へこたれない理想主義者 大原總一郎』の作者井上太郎氏は述べている。

大原總一郎は、先見性ある異色の実業家と言われた偉大な父・孫三郎の事業や遺産(精神的物質的)を受け継いで、企業経営や美術館運営を通して、自らの哲学と信念を貫いた人である。その活躍の場は、日本だけでなく世界的な広がりを見せ、1企業の経営者であると同時に、財界の様々な役職や、また物価庁次長、国民生活向上対策審議会の会長や「21世紀の日本」準備委員会などの政府の仕事にも携わる。

[ 芸術、音楽への愛 ]
ところで、この伝記を読み、彼について胸に刻まれた印象は、経営者という前に、一人の偉大な思想家、哲学者、教養人、であり、その博識、関心の範囲や深さには感嘆するばかりだ。子どもの頃から、音楽、特にクラシックは彼の人生そのものであるほど愛好した。

父から受け継いだ大原美術館だが、さらに発展させ、絵画の購入の際も、自分が納得しない、共感を得ない作品は、どんなに有名な画家のものでも買わなかった。美術品や美術館についても独自の哲学を持ち、ピカソなど、個性を強烈に感じさせる絵、力強く直截的に人間の根源的なものを表現した絵が好きだった。
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総一郎が一目見て何としても手に入れたいと思ったピカソの名作「頭蓋骨のある静物」(大原美術館)

[ 哲学 ]
幼少時から読書を好んだ総一朗は、大学では哲学科を希望したが、父に反対され経済学科へ。しかし旧制高校六高、大学(東京帝国大学)を通して、ドイツ哲学に強い関心を抱き、ろくに学校へも行かず哲学書を貪り読んだ。また總一郎の生涯を支配したものとして、伝記の作者は 
1)キリスト教を身近なものとして生きる 
2)ロマンティシズムへの没入 
3)音楽への愛                 だと記している。

58年の短い人生であったが、彼の経営の進路や決断も、常にその底に彼の哲学が生きていた。戦後自信を失くした日本に、自国が独力で開発することの意義を唱えた。また戦後まだ国交のない中国に自社がやっとのことで開発したビニロンプラントを輸出することを決定し、並々ならぬ障害を乗り越え、道を開いたときも、その信念は、ビジネスを超えた、日本人としての中国への贖罪であった。 

また、昭和30年代、日本が高度成長まっしぐらの時、その20年後、30年後を見越したビジョンを持っていた。「企業の社会的責任」「経営者の倫理」「経営者の人間像」などの講演や記事を通し、バブル経済の到来とそれに伴う国土破壊、を30年前に予告し警告した。当時社会では耳慣れない「公害」という言葉を早くから使っていた。
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自社で開発したビニロン工場を案内する總一郎 右は若き日の欧州旅行で知り合って意気投合した吉田茂


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彼のことを的確に簡潔にまとめようとしても今の短い時間や紙面では無理だ。私がこの伝記上で1番印象に残ったことの幾つかを箇条書きに・・。(あまりに書きたいことが多すぎる!)

1)人間は海外で学ばなければ、という父孫三郎の信念で、長女が生まれてしばらくして、26歳の總一郎と夫人は昭和11年から13年までイギリス、ドイツ、アメリカなど欧州滞在をし、音楽や文化、歴史、経済など西洋文化に接し学んでくる。(さすが大富豪の子息、という羨ましい限りの経験。会社も周囲も反対したというのに孫次郎の偉大さを知る)

2)読書、音楽、美術、民芸、将棋、彼の趣味の広さや深さは人並みではないが、自然科学、ことに動物や鳥が大好きだった。晩年まで、国内そして海外への出張の先で、折りあるごとにバードウォッチングをし、とりわけ鷹や鷲ののような猛禽類を好んで自らも鷹狩りを楽しんだ。彼は何十種類もの鳥の声を聞き分けることができたという。
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                  鷹狩りをする總一郎

やがて自分の葬式のシナリオを遺言で書き、倉敷の美術館の中庭で無宗教で行われた。1羽のはやぶさが慄然と見守る中、フォーレのレクイエムが鳴り響き、多くの人々が庭を一巡し献花した、という。

3)葬式は無宗教だったが、倉敷レーヨンと倉敷紡績の合同葬儀は大阪で仏式で行われた。しかし大原家は孫次郎の代からキリスト教に影響を受け、総一朗の妻も戦後まもなくカトリックの洗礼を受け、子供たちも同様であったが、総一朗も、死の10日前に受洗した。日本の、しかも地方都市で、また大企業の経営者がカトリックというのはあまり例がないように思う。

4)総一朗は昭和32〜34年まで3年にわたり、延べ41回、東京大学経済学部で、「化学繊維工業論」の講義を行っている。この講義をまとめた『化学繊維工業論』は東京大学出版会から刊行され、彼は東京大学より、経済学博士の学位を授与される。1981年には『大原總一郎随想全集』全4巻を福武書店より発行。
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大原總一郎を形容する言葉がいくつかある。まずこの伝記のタイトルは「へこたれない理想主義者」。また「美神に仕える化繊の鬼」。そして「未来に賭けて生き続ける人」と言われたのは彼の没後。
 また大原總一郎の生誕100年を記念して制作されたテレビ番組では「美しい経済人」とのタイトルがつけられている。
ここにそのテレビ番組の完全版が見れるのは大変幸運なこと
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≪美しい経済人 大原總一郎≫ (完全版/約44分) 2009年12月テレビせとうち、BSジャパンにて放映
http://www.kuraray.co.jp/company/history/video/video01.html

[大原總一郎と富山]
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総一朗が買い取って宿舎にした北前船廻船問屋の森家(現在は国指定重要文化財)

さて、伝記の中でもひときわ嬉しく驚いたこと・・・それは大原総一朗がこの富山と関係があったのだ!総一朗が自らの哲学のもと、社運を賭けて生み出したビニロンの製造のため、昭和25年富山港に近い東岩瀬に倉敷レーヨン富山工場を建設した。(41歳・以後13年に及ぶ) その際、伝記作者井上太郎によると

「・・富山工場の近くには土地の素封家が建てた家があり、その佇まいが気に入って総一朗は買い取って宿舎としていた。工場の傍を流れる神通川の読みが「陣痛」に通じるとあって、総一朗は、ビニロン工業化の安産を願い、この宿舎を「晏山寮」と名付けた。そして客間の壁には、友人棟方志功が総一朗のために作った大きな版画が掛けられ、それにはニーチェの『ツァラトストラ』の冒頭の文句が刷られていた。
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      棟方志功が総一朗に贈った版画(森家 レプリカ)

総一朗は晏山寮を訪れるたびに、版画の前に立ってこの詩を口ずさんだ。そこには40歳に至ってビニロンの工業化に踏み切った彼自身の姿が記されているかのようだった。・・・・11月11日、富山工場でビニロン創業式が盛大に挙行された。その日総一朗は「美尼羅(ビニロン)版画柵」と名付けられたこの版画の前に立ち、万感の思いをこめてこの詩を口ずさんだに違いない。」(「へこたれない理想主義者」より)
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       堅い友情で結ばれ理解しあった総一朗と棟方志功

先週、暮れも押し迫った12月末の曇り空の下、私は岩瀬にある北前船廻船問屋森家を訪れた。数年前に2回ほど中を見学したことはあるが、今は意味が違っていた。私はこの森家が總一郎と関係あったなんてちっとも知らなかったオバカさん。 あの総一朗が、富山の森家を愛し、この家で過ごした日々があったなんて・・・。泣きたくなるほどその日々に熱い想いを馳せる。ぜひ、この五感で彼が愛した家の佇まい、天井、ふすま、そして同じ空気を感じたい!と、観光客など一人もいない冬の岩瀬、冬の森家を訪れた。
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  今は富山市に寄贈され北前船廻船問屋の観光スポットに
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         玄関を入るとこの重厚な三和土の間と吹き抜けの天井

ああ、総一朗さんもこの屋根の下にいて、ここで夜を明かし、この天井を見上げたのだ。晏山寮と名前をつけて。

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        手作りガラスの戸が美しく、向こうには中庭が

火曜日初めての客?に、一生懸命説明してくれる案内人に「すみません、總一郎さんに関係するところだけ今日はお願いします」と。でも、彼は「総一朗さんは昭和54年までここに来ていた」と間違ったことを言った。總一郎は43年に直腸癌で惜しくも世を去ったのに。 そして嬉しかったのは、床の間にまさに私が読んだ2冊の伝記の二人の額が!この偉大な父と子はここでどんな会話をしているのだろうか?

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             大原孫次郎(左)と總一郎親子
倉敷で買ったもう1冊は『わしの眼は十年先が見える―大原孫次郎の生涯』城山三郎作(新潮文庫)
この父のほうも偉大過ぎて、私の力では今は書けそうもない・・・。
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大原總一郎・・・そのキーワード、「読書家」「知性」「哲学」「信念」「カトリック」「著作全集」・・・あれ、どこかでそんな人がいたっけ・・・!  そう、政治家大平正芳。政治的選択も決断も、その奥には常に彼の哲学があった。
大原総一朗もまさにそういう人だ・・。

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