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CASABLANCA in the Valley

プロフィール

ブログ名
CASABLANCA in the Valley
ブログ紹介
2011年も駆け足で半分過ぎました。すでに歴史に残るたくさんのことが起こりました。CASABLANCA がスタートしたのは2006年の夏でした。今年後半はいいことが少しでも多くありますように。

スポーツマンの友人から頂いた写真です。いいな〜〜。。こんなコメントが。
「赤禿山に山スキー。今日も新雪ラッセルきつかったが、帰りはパウダースノーの中、浮遊感を感じて滑走。天気が回復して雨飾山がお出迎え!」
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富山八雲会の新年会

2012/01/22 20:39
最近、忙しくて、疲れて、平凡な日々、とりたてて書くべき exciting news もありませんので、たまに月に1度くらい訪ねる作家の林真理子さんのブログみたいにカジュアルなさりげないページにしてみようと・・・。
 (林真理子「あれもこれも日記」http://hayashi-mariko.kirei.biglobe.ne.jp/ )この中に登場する林さんの愛犬マリーを時折見て楽しんでいます。
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                      林真理子さんの愛犬マリー

さあ、さりげなく簡単に、と始めてみたのですが、昨夕行われたわがボランティア団体、「富山八雲会」の新年会兼受賞祝賀会のことを。
新年会は富山駅近くの「電気ビルレストラン」で行われた。電気ビル、なんて名前は聞こえが悪い(いえ、ムードが無い)が、戦争で焼け残った貴重なレトロの建物。一昨年は何かのドラマで使われ一躍注目されたとか。名鉄ホテルができるまでは富山県で唯一の豪華?ホテルだったとか。今も十分ステイタスの高い富山の名所。
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                    桜橋通り 電気ビル(ディング)

午後2時からはは八雲会の月1回の例会だったけど、2時から夜までなどとても家をあけられないので、途中帰宅して夕食を出したりいろいろ家庭の仕事を。週末は特に忙しいのだ、という言い訳をして5時の開始に3分遅刻。

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        諸々お知らせのあと まず馬場会長のご挨拶
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 そして昨年4月に就任された遠藤富山大学学長のお話と乾杯の音頭

そして宴たけなわとなった。今日のご馳走は富山湾の味覚、ですね。

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                私たちのテーブル

私の隣りの男の方(今日は初対面)が教えてくださったのだが、壁にかかっているクールな瓶の絵は、元衆議院議員の綿貫民輔さんの奥様のお兄さんが描かれたものだとか。そういえばそのようなお話を聞いたことがあるような・・。
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 テーブルは3つで、木下先生があちらのテーブルまで出かけて歓談
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副会長の松井さんとお話して盛り上がっていらっしゃるのは前日ようやく入会してくださったという千田篤さん
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真ん中は今日の例会で八雲とフランス文学について講義された富大の中島準教授、右は東京から駆けつけてくださった南日前八雲会会長、左は牧野Y事務局長
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        あちらのテーブルのお馴染みの皆さん
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  今日は昨年秋に八雲会が県から頂いた文化功労賞受賞の祝賀会でもありました

今日は、年2回発行の 富山八雲会ニューズレター第15号が発行され、また2年前から取り組んできたブラウネルの「日本の心」の原稿が立派な book に綴じられて(見本)登場した。出版の日も近い?  いずれも木下先生の編集の労のお蔭です・・。
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池辺晋一郎さんの東日本大震災復興応援コンサート in 富山

2012/01/13 19:07
昨夜1月12日、池辺晋一郎さんの指揮・お話による震災復興支援コンサートは、ほんとにほんとに素晴らしかった!!

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県民会館にて(1/12) 仙台フィルハーモニーと指揮する池辺さん(北日本新聞Webnより)

11月半ばにコンサートを知った即座に、「これは絶対行かなくては!」と。 なぜなら、まず第一に、池辺さん編曲による映画『剱岳・点の記』のあのバロック音楽が演奏されるという・・!

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           なつかしい『剱岳・点の記』の写真入りポスター

『剱岳・点の記』追っかけ親衛隊の私たち5人の座った席は、前から2列目。演奏者は2メートル目の前、指揮者も5メートルという至近距離だった。そこしか席が取れなかったとKさんは恐縮していたが、そんなに間近で聴いて、そして見れたことに大感謝。
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富山には珍しく積雪凍る寒い夜、開演30分前に会場へ着いた。やがて800席は満席となる。

6:30P.M. 仙台フィルの演奏者の方々が舞台に着席し、まず石井富山県知事が挨拶された。今日は、富山県として、東日本大震災復興支援コンサートが開催されたことを喜び、入場料は全額復興支援のために贈られること、またあの県民あげて応援した『剱岳・点の記』の音楽を今日は生で聴けることなど話された。支援コンサートであることが、今日の二重の喜びである。仙台フィルハーモニー管弦楽団は、3月11日の大震災以降、被災者に寄り添いながら演奏活動を続け、人々の心、生活そして地域の復興に寄与しているということだ。

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そして池辺晋一郎さんが登場・・・お名前とお顔は、特に『点の記』の映画のあとは胸に刻み込まれている。でもお話を聞くのは初めて。とても軽妙で暖かく、そしてちょっぴり駄洒落も交えて(駄洒落は彼のトレードマークだとあとで知った)素敵な挨拶をされた。そしてスタート。まず前半は、『点の記』の音楽から。あいだに池辺さんのお話を挟みながら次々と演奏された。

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日本測量協会の月刊『測量』でインタビューに答える池辺さん 2009年

 バッハ:管弦楽組曲第3番 BWV1068よりアリア(G線上のアリア)
  映画では元測量手の古田盛作(役所広司)が地図を作ることの意味を語るところ、宇治長次郎が息子からの手紙を読む場面で使われている。
 ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より冬
  映画では、峻厳な剱岳をめざす男たちの姿と重なって深い印象をもたらす。
 マルチェッロ:オーボエ協奏曲二短調より第2楽章
  二短調の哀愁をおびた旋律がオーボエによって奏でられる。映画では映画では柴崎芳太郎(浅野忠信)と長次郎(香川照之)が下見登山をする場面で使われている。
 ヘンデル(池辺晋一郎編曲):「ハープシコード組曲第2番」より第4曲“サラバンド”
  映画では剱岳の登頂に成功する場面で使われている。
 バッハ(池辺晋一郎編曲):「幻想曲フーガ」より幻想曲
  映画の冒頭と最後に流れる音楽。

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池辺さんが指揮台に上り、音楽が流れ始めた・・。ああ、あのなつかしい曲が始まった・・。
胸と目がじーんと熱くなって前が見えなくなった。
あの剱岳の山と、雪の上を黙々と登る彼らの姿が浮かんできた。
『剱岳・点の記』を追いかけたあの日々が甘く切なく浮かんできた。
オーボエのソロの音色が会場を突き抜けて響き渡ったとき、こんなにも素敵な音、素敵な曲がこの世にあったなんて・・と熱いものがこみあげた。オーボエは西沢澄博さんという若い素敵な奏者、黒いフロックコートが高貴な音をさらに高めた。

そしてあのヘンデルの「サラバンド」の重厚な響きには、いつまでもこの演奏が続くことを願うばかりだった。
『剱岳・点の記』の曲は5曲だったが、こんなに時間が止まって欲しいと思った演奏会がほかにあっただろうか・・。
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私は結局、映画『剱岳・点の記』をTVでの放映を含めて10回は見た。そのうちの1回は東京有楽町で、皇太子様をお迎えしてのチャリティ試写会だった。オーケストラでバイオリンを弾かれる皇太子様も、この映画の音楽に心をとめられ、「あそこはバイオリンをビオラに替えられましたね?」とまで専門的な質問をなさったとか。

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今日の映画音楽はサウンドトラック盤CDで繰り返し何度聴いたことだろう。ここで、初めてほんものを池辺さんの指揮で映画と同じ仙台フィルの演奏で聞けるなんて想像もしなかった。
改めて、私は映画を、そしてあの過酷な撮影の日々を、そして木村監督や俳優さんたち、スタッフの方たちを思い出していた。あの別山での落石事故のときは、撮影存続をふるえる手でひたすら祈るばかりだった。そんな必死なみんなの思いの結末は「日本アカデミー賞6冠」という夢のような喜び。

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指揮者で、この音楽の編曲をされた池辺さんのお話も今回のプログラムの主要な部分だったが、ユーモアを交えて楽しく、関連する音楽情報をわかりやすく話された。池辺さんは『剱岳・点の記』のこの音楽で、日本アカデミー賞音楽賞を受賞された。そしてその指揮! こんなに目の前で指揮者を見つめたのも初めてだった。その全身のリズムと踊るような動き、強く激しく、オーケストラを指揮者の全身で高揚させていく様は、演奏とともにコンサートの感動的光景だった。彼の黒いタキシードの揺れとシルエットが脳裏に焼きついている。
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後半は、池辺さんの手がけた、NHKの大河ドラマのテーマ音楽を主に演奏された。『黄金の日々』『独眼流正宗』のテーマ音楽、また黒澤明監督との思い出話とともに、映画『影武者』のテーマ音楽などなど・・・・。
ほんとに楽しい、素晴らしい音楽会だった・・・。凍えるような真冬の夜の熱いコンサートだった。
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知の政治家 大平正芳さん

2012/01/04 23:37
なぜ今ごろ、30年前に故人となった元首相・大平正芳さん(1910〜1980)のことを?と言われるかもしれない。
発端は、昨年初夏、ずっとこだわってきた作家辻井喬さん(堤清二)の自伝的著書を何冊か読み繋げていったとき、一緒に購入した彼の著書『茜色の空』(2010年文芸春秋)という大平正芳の伝記小説を、秋に開いてみたことに始まります。
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そもそも私は、明確な理由無く大平さんに好感を抱いていたらしい。テレビや新聞から伝わる温かみのある人柄のほかに、彼について大きなインパクトがあるとすると、まず政権途中の総選挙中に病床に倒れたときのこと。

私は当時二人の子どもがいて大阪に住んでおり、神戸・西宮に住む3人の友人たちとそれぞれ子連れで、三重県志摩の賢島へ一泊旅行に行った。子どもが寝静まって私たち4人はほぼ徹夜でお喋りをしたのだが、その時、今病院へ入院中の大平さんの話になって、ご主人が朝日新聞に勤めていらしたKさんが、「実はここだけの話だけど大平さんは本当はもう絶望的でかなり危ない病状なんですって」と言ったことを今でもその口調まで覚えている。えっ!と絶句したが(当時国民は、彼は選挙の疲れで一時的入院、としか思っていなかった)もっと驚いたのは、その数日後に本当に亡くなった時だった。現役の首相が亡くなるというのは彼だけではないが、国民全てにとってショッキングなことであった。

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週刊朝日の表紙になった病床(虎ノ門病院)の太平さん。心筋梗塞のため、退院することなく14日間の闘病のあと他界した。(1980年・昭和55 享年70歳)

大平正芳さんは、長い政治生活の主要なポストを通して、首相になる前から国民にとっては名の知れた自民党の政治家った。(衆議院議員11期、内閣官房長官[第21・22代]、外務大臣[第92・93・100・101代]、通商産業大臣[第31代]、大蔵大臣[第79・80代]、内閣総理大臣[第68・69代] )  「鈍牛」というあだ名が示すように、決してハンサムとは言い難く、また首相の資質として雄弁で弁舌爽やかな人とも言えず、「あ〜・・う〜・・」が誰もが知る彼の特徴だった。
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             なんかとても親しみやすい風貌でした・・

でも、首相になったとき私があらっと思ったのは、日本の政治家には珍しく、「クリスチャン」であると知った時だった。それはとても印象的な事実だったが、今、思い出すとそのくらいしか彼を語る私の知識はないのに、その伝記的小説『茜色の空』をアマゾンで注文したのは、辻井喬がそれを書いた、という事実も大きい。それで、春から手元に届いていたが、ようやく秋になって『茜色の空』を読み始めた。 そこで知った大平正芳という人の私にとってのインパクトは、クリスチャンということの他に、大変な読書家であるということだった。
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 「彼は難しい本を好んだ・・」昭和53年撮影(郷里香川県観音寺市の大平文庫には読み終えた本だけを1万5千冊収録している)

政界無類の読書家であった彼は、政界きっての理論派と言われ、それは若き日から培われた彼の習慣であり資質であったが、後に政界の重要なポストを担ったとき、彼の政策、思考は全てそれらの理論や思想に裏付けられたものであったことが今回の3,4冊の読書でよくわかった。内政においては、信仰や苦学の経験からくる他者への思いやりが常に存在し、また中国やアジアの国々、アメリカなどの外交では、相手国の立場や文化・歴史への理解と認識を踏まえた上での相手国への敬意が基盤となっていた。 こうして私は「大平正芳」に存分に惹きつけられたのだった。
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中国との国交回復をめぐって毛沢東と握手する大平外務大臣と、田中角栄首相
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                 外相時代周恩来首相と
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               首相時代 ケ小平首相と

『茜色の空』は、1910年(明治43)香川県の農家(貧農ではないが決して裕福といえない自作農)に生まれた大平正芳が、毎朝毎夕農業のハードな手伝いをしながら学校へ通う小学校時代、クリスチャンの洗礼を受けた学生時代、などを辿り、高松商高から一橋大学、大蔵官僚となり、後に総理大臣となる池田勇人に見込まれて政界に入っていく足跡が描かれている。また政界においては、宿敵や盟友との闘争と交友の中、自らも日本の政治のトップである首相の座に登り詰め、やがて政争の嵐の中、任期半ばで命を落とす・・・。

これは一気に読める本だった。大平さんの伝記ではあるが戦前戦後の日本の政治史、政治人脈相関図でもあり大いなる興味を持って読んだ。感動した私は、「でも、これは彼と親交があり、彼に傾倒している作家辻井喬の書いた伝記だから」と、より中立性を求めて、より客観的に描いているものを読んで「ウラ」をとりたい、とアマゾン古書でさらに2冊注文して読んだ。ただし1冊は大平さん自身の自伝だけど。
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『大平正芳―「戦後保守」とは何か』福永文夫著(中央新書)と『私の履歴書 大平正芳』(日本経済新聞社)

どの本を読んでも必ず彼の読書家の側面を挙げている。
上の福永文夫著『大平正芳』では、前書きに次のように記してある。
・・・大平はまた、読書家で文筆家としても知られ、「戦後政界屈指の知性派」と評された。派手なパフィーマンスとは無縁の、知性と言葉に重きをおく政治家でもあった。・・・

読書家であることは、文章や言葉の遣い方にも優れていることを示し、同じ福永の著書には、日本共産党元議長だった不破哲三氏による幹事長時代の大平さんについての評が載っていた。
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 大平さんのアーウーは伊達ではなくて、国会の答弁にしろ、討論会での発言にしろ、議事録を起こしてアーウーを抜くと、きちんと筋の通った文章になっている、ということも政治通の間では評価されていました。歴代の首相の中には、よどみなくしゃべるのだが、議事録を起こして見ると、“文意不明”という人も結構いましたからね。・・・(中略)・・大平幹事長は、なかなか信頼できる協議相手でした。むずかしい問題でも、議論を尽くして結論が出ると、その場できちんと回答を出す。そしていったん回答を出したら、確実に実行しました。その後は、自民党幹事長でそういう人物に出会うことは、まずなかったですよ。(『私の戦後六○年・日本共産党議長の証言』より)
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政敵の、しかも知的な不破さんからこんなふうに評されるのは凄いことだ。
またWikipedia では以下のように記述している。
 朴訥で謙虚な人柄だったが、「戦後政界指折りの知性派」との評が一般的であり、学問や人間の知的活動への畏敬の念を、政治の場にあっても終生失わなかったとされる。財政問題への取り組みや、「総合安全保障」の提唱、1960年代の外相時代から、自衛隊も含めた積極的な国際貢献を唱えたことなど、その政治思想や経済観の先見性は今日顧みられることが少なくない。2008年頃から伝記、評伝、回想録や大平自身の著作集などが相次いで刊行され、静かなブームとなっている(2010年5月1日朝日新聞、5月2日読売新聞)。
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またblog「加藤賢治の政治評論」(2011年11/29)によると
 ・・・首相になった大平さんは、マスコミから、「アーウー宰相」と言われていて、私も当時は彼のことを当意即妙の受け答えができない弁の立たない政治家だとばかり思い込んでいたのだが、実像は随分違ったようだ。
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無類の読書家で、繊細な感覚の持ち主でもあり、あの池上彰氏が「歴代総理の中で最も知的な総理」と評しているほどの知性派だったのだ。亡くなった談志が大平さんのことを、「彼の頭の中は、いつも百万語がたぎっていたんだろう」と語っていたのもうなずける話だ。
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         談志さんは参議院時代大平派に属していた


ここでは、大平正芳さんの政治的な業績や履歴には触れず、読書家としての一面にスポットを当てたが、でもそれは一面のみならず彼の全てを物語っていると思う。(知性派ではあるが、ユーモアを湛えた人柄、
私生活では難病で26歳の長男を失った哀しみ、また同じ「貧しい農家出身」の田中角栄との生涯にわたる盟友関係・・など取り上げたいことも多々あるのだが)

彼はまた、多くの著作を残しており、『大平正芳全著作集』1〜6巻(講談社)には書かれた年代順にエッセイや論文が収められている。
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ここ数年の間に、自民党、民主党を入れて何人の首相が次々に現れ消えていったのだろう。『茜色の空』を読むと、人間として、また政治家としての哲学を持った大平さんが、その哲学や信条、信念を基に日本や世界の行く手を大局的にとらえ、決定していく過程が印象的だった。政治にはそれぞれの時代背景があり、昨今の首相たちと比較しても始まらないかもしれないけれど。 今年は生誕102年になる。

[追記]
2日前、大学の後輩で(彼女は国文科)、上の賢島へ1泊旅行した友人の石垣さんから久々にメールが来ました。私が尊敬する彼女が同じ頃同じ本を読んで大平さんについて同じ感想をもった、というのはとても嬉しいことでした。
・・・・昨日ブログ拝見しました。
「茜色の空」は私も昨秋読み、Mさんが感じられたことと
同じ感動をしました。
読書家で「アーウー」を除けば、理路整然と中身の濃いスピーチを
していて、ほんとに懐かしい政治家です。
そして賢島の一夜のこと、すっかり忘れていましたが、
Mさん、よく鮮明に覚えていらっしゃいますね。
私がアメリカへ行くから、その前に一度ゆっくり、ということで
行ったんだったかしらね。
半徹夜でおしゃべりした記憶が蘇りました。・・・・
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TVドラマ

2011/12/28 11:57
今までほんとに30年近く、特にこの20年余り、テレビを見る習慣がほとんどなかった。理由は、子育てと家事、翌日の仕事の準備・・・で暇がなかっただけ。でも、突発的にたまに何かのきっかけでTV(ドラマ)を見始めると、たまに見るせいかなかなか感動したりする。

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2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』には、はまり過ぎた1年だった。宮崎あおいさんの演技の素晴らしさには感動で震え、その年の3月、NHKまで押しかけてセットを見た。あおいさん、高橋英樹さん、瑛太さん、良かったな〜〜・・・
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中でも井伊直弼との茶室のシーンは最高の場面で、これをはじめこのCASABLANCAに何度『篤姫』のことを書いただろう。そもそもこのドラマを見るきっかけは、主役の宮崎あおいさんが、折りしも撮影中、そして追っかけ中の『剱岳 点の記』に出演するというから義理的に見始めたのだった。

それにもう1つおまけに、何と『篤姫』の素敵な有名ディレクター佐藤峰世さんは同じ小さな山の小学校で学んだ4年後輩だった。わが実家から2キロ離れた彼の生家まで押しかけて、お父さん、お母さんに感動を伝えたり・・(笑)、彼が母校の上田高校で講演すると聞けば、富山からここへも押しかけた・・((-_-;))

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            これと決めたらとことん追っかけな

さて、あれから特に印象的なドラマはなかったように思われるし、そもそも相変わらずテレビは疎遠。(例外的に、去年の11月、五夜連続で放映された、「99年の愛」(アメリカ移民の話)はとてもスケールの大きなドラマだった。橋田須賀子の脚本の独特のせりふが嫌だったけど) お陰で、実は我が家はこの7月に行われた地上デジタル放送に遅れをとってTVは廃物になったまま座敷とキッチンに置いてある・・(-_-;)  と言っても、見ようと思えば、廊下でつながる隣りの義父のリビングでいくらでも見れるのだ。ただ、ますます見ないだけ。
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       『99年の愛 Japanese Americans』2010年11月


ところが、今年の秋、ちょっとしたきっかけでTVに目がいくようになった。ブルーレイとやらをプレゼントされた93歳の義父のために私が録画をしてあげることになったので(父はそれまでは番組のコードを入力して自分でビデオ録画していた)、番組表を見ながら録画したりするうち、ふと自分でも見てみることになる。そんなこともなければ、テレビの番組表なんか見たこともない。

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まず、最初に義父のために録画したのは、NHKの、松下幸之助の伝記的ドラマ『神様の女房』(10月1日から土曜3回連続)だった。裕福な船主の娘むめの(常盤貴子)が無一文の奉公人の幸之助と結婚し、絶望的どん底生活を味わいながらも二人の協力でやがては日本で最大の電機メーカーの会社を設立していく物語。
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二人の協力というが、幸之助の才能があればこそのことだが、妻のむめのの内助の功は見ていても愉快、爽快、豪快。貧乏の中でも明るくおおらかで、また気丈で我慢強く、思わずわが身を振り返る。私自身は妻としてどれだけの内助の功?? 
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まあ、自分はさておき、息子のお嫁さんにはこんな女性がいいな〜〜、なんて勝手に微笑んでいた。夫を助け、生活を守るための数々のアイディア、智恵、努力。・・あとでこのドラマを見たといういとこのK子さんと感想を話したが、「あのドラマ見ていたら、今まで嫌いだったけど常盤貴子が良かったね!好きになったわ」というのが共通の見解だった。義父も翌朝録画を見て楽しんでいたようだった。

そして10月16日(日)から始まったTBS開局60周年記念番組という『南極大陸』。これも義父が見やすいと思って選んで録画して薦めた。
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            ついに・・1年後生きていたタローとジロー

第一話の録画を翌日見て、感動らしきものが始まった。私はタローとジローが南極に生き残っていたということしか知らなかったが、息子達の世代はマンガで読んだとか絵本で読んだ、とかよく知られた話なんだ・・・。主人公の隊員木村拓哉は相変わらずいいし、それをとり巻く隊長や上司の大学教授、柴田恭平、香川照之らのキャラクターもよく描かれているし、極寒の地で、命がけのエピソードが隊員同士に喧嘩や軋轢も生むが、それを乗り越えることで気持ちも繋がっていく過程がいい。木村拓哉VS堺雅人の対立が次第に融けてゆくところが良かった。何だか文科省推薦映画みたいだが、自然と人間と動物が繰り広げる世界にすっかりはまった2ヶ月だった。(私が尊敬するHY先生は初回を見ただけで失望して後は見なかったそうだが・・)
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              「あ、あれは・・・・・!」
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           木村を見て駆け寄ってくるタローとジロー
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ところが、最終的には知らないが途中経過で視聴率が思ったより伸びない、とこき下ろされていた。確か南極=難局の画面はいつも厳しく暗かったけど・・・。でもくだらないバラエティショーが多い中、こんなスケールの大きい感動ドラマは尊敬に値する。 そういえばテレビからドラマが少なくなったのではないかな〜。

さてほとんど平行して、北陸朝日で8回シリーズで「DOCTORS」という外科医が主人公の病院ものドラマに気づき、主人公が素敵な沢村一樹だったので2回目から見てこれもはまった。
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実力と悟りを持った外科医沢村が、新しく赴任した病院を、次々に改革していく面白さは爽快だ
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癌の妻を救えなかったという心の傷を持つ彼だが、「最強の外科医」と副題が付くほど力のある彼が、医師としての正義感と倫理観で、大らかに強く優しく周りを引っ張っていく姿を、毎回安心して魅入っていられるのがいい。
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             なんと・・自身にも癌が見つかって・・・
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            自分の手術の執刀を“敵?”のこの人に依頼して
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今度は病院の命運を賭けた最難関の肝臓生体間移植の大手術に挑戦
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      敵味方一体となって手に汗にぎる長時間手術も成功する

何事もそんなにうまく展開するところががちょっとコメディタッチでマンガチックなのだが、はらはら心傷ませるドラマは今敬遠したい私の心境。院長の野際陽子やその甥で沢村に敵意と競争心を燃やす高嶋政伸の悪役も喜劇的で面白い。このドラマが2週間前に完結したのはほんとに残念だった。
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      あの余裕ある素敵な笑顔がまだ脳裏に・・。(笑)

そしてあの最週回の瞬間視聴率40%となって今年のドラマのトップになったらしい『家政婦のミタ』を、4話目か5話目から見たのだった。
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これも評判を聞いてちょっと見てみたら、やっぱり毎回、そして最終回まで見ることに。松島奈々子の「ミタ」がいいというのではなく、過去に夫や子どもを失くした傷を持つミタさんが家政婦として働いた阿須田家の4人の子ども達とのユニークな交流と、4人の子ども達の演技がとても良かったから
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     阿須田家の子どもたちと父親、そして家政婦のミタさん

長女と、そして特に二女で末っ子の女の子がとってもかわいい。わざとらしくなく、その演技もセリフも新鮮で毎回彼女が出てくると微笑み続けた私だった。
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             末っ子のきいちゃんの名演技

ちょっと非現実的だが、4人も子どもがいるのに頼りない、成長しきってない父親という設定がまた面白い。彼の浮気で4人の母親である妻を自殺させた過去をもつ。長谷川博巳という恋愛ドラマで注目の2枚目がその“未熟な父親”役をやるところもいい。
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                 頼りない父親役の長谷川博巳

松島奈々子のあの無表情の役は、あまり好きではなかった。最後にやっと笑ったのはやっぱり素敵だったが、そのあとまた冷血モードに戻ってしまったのにはがっかり。母親の死で崩壊しつつあった家族を繋ぎとめた存在はgood.
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 最終回の数分だけ涙の笑顔 ハッピーエンドではなかったのが残念

さてさて、こんなに見てしまった秋のドラマ。それが12月にほとんど一斉に終わって、淋しいことこの上ない。私もついにテレビ人間の仲間入り?  思うに、11月は私にとってはブルーな日々、いろいろあって鬱病??寸前。それらの日々、この受身的娯楽であるテレビがどれほど私を慰めてくれたことか。「あ、今日はドクターズだ」と思うとちょっぴり元気が湧いてくる。少なくとも見ている間は現実を忘れさせた。まあ、本当に辛い「最悪」の精神状態のときは、いかなるドラマも音楽も受けつけないものだけど。(そんな経験したことありますか?)

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最後にNHK朝の連続ドラマは、義父に朝食を出したあと、私はコーヒー飲みながら新聞に目を通すほっとするひととき。そこにちょうど8時のドラマが始まる。半年大体見続けるが、新しいドラマが始まると前のドラマのタイトルや内容まで早々に忘れるのは何故だろう。「おひさま」は長野県安曇野が舞台だったが、方言の入れ方とか(ネイティブはみなそう言うものだ)あまり好きではなかった。感動した場面もあるが、優等生的善人家族や友情お仕着せ場面はちょっと・・と冷めることも。

それにひきかえ今放映中の「カーネーション」は岸和田が舞台、朝からすさまじいセリフと父親の暴君シーンが飛び交う。小林薫の父親の凄さはさすがに時々目をおおった。
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ここでも主人公の糸子の子ども時代を演じた女の子が大変素晴らしい!暴れん坊少女。

主人公の糸子役の尾野真千子さんはとてもかわいらしくしなやかで美人なのに、いったんきれると凄い勢いでドつく。意地悪な大政翼賛会のオバサンたちにも大声でどついて追い返したときには胸がすーっとした。こんなにすさまじいタンカを切る主人公は朝のドラマでは前代未聞では? 
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気取らず、女っぽくしおらしくなく、創意工夫の頑張り屋、とっても共感。
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糸子は頑張りやで働き者 長女として親や姉妹や娘3人、そして縫い子の店員たちの大家族を背負って生きる
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戦時中母糸子に前髪を短く切られて怒る長女・・この子役もほんとにかわいいしリアリティがあった
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ドラマのキーワードは「ミシン」 ミシン1つをもとに、強くたくましく・・・

ところで糸子は、あのフアッションデザイナーコシノ3姉妹のお母さんがモデルとか。
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             コシノ3姉妹とお母さん(糸子のモデル)

というわけで、毎回楽しみに見て今年も暮れていく。それにしても、今、「子役」の演技レベルは昔と比べ5倍は上がったのではないかしら?



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富山県の西南にある城端 そして井波

2011/12/17 10:56
長野県の三分の一の面積である富山県は、車で1時間も走ると県内のどこへでも到達できるところがすごい。(長野県の広さと言ったらもう私にとっては飯田市とか飯山市とか諏訪市とか大町市とか・・・火星のようなはるか彼方の地だ)
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        城端曳山会館へ行きました  曳山の勇壮な山車
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            山車によって異なる豪華な車輪

というわけで、富山狭しと言えど、今日は私にとって未知の街、富山県の西南にある城端、そして井波へ。
富山に住んで、まだ足を踏み入れたことのない町はいくつかある。城端もその1つ。城端、って名前からして何だか情緒香る街。麦や祭り、麦や踊りが頭に浮かぶが・・何と、城端はYAMASHITA先生が生まれ、中学2年まで育った故郷とか・・・。先生が城端を案内してくださる楽しみを、松井さんと私はあれやこれやで2ヶ月待つことになったが、12月初めようやく実現。その日は、降り続いた雨もどこかへ消えて、松井さんは「私は晴れ女なのよ」としきりに自慢していた。

富山インターから北陸自動車道に入り、東海北陸自動車へ入るとしばらくして福光インターで下りる。福光・・・そうだ、なつかしい名前。昔の知り合いYM先生の故郷。ここも初めて来た町。と言っても城端町も福光町も今はあの大合併で「南砺市・なんとし」になったのだそうだ。(初めて知った) ナント、ナント、五箇山も利賀村もみんな南砺市だって。
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                    緑色が城端
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          これが北陸の小京都と呼ばれる城端の街並み
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          Y先生お奨めのお店でランチを頂くことに
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カウンターで美味しいお重のお弁当をいただきました。 ちなみにご主人と一緒にもてなして下さる奥さんはY先生の中学校の同級生とか

Y先生がお奨めだけあってなかなか情緒ある、古い歴史の街の品格を持ったお店だった。
お腹を満足させて、次はこの店の隣りにある有名な「城端曳山会館」見学。 富山には曳山という山車があちこちにあり、春夏秋に勇壮なお祭を展開。でも私はTV映像や新聞のニュースの写真で見るだけで、実物は1度も見たことがなかった。
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         中にはこんな大きな曳山の山車が所狭しと展示してある
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          照明も時々消えて夜のムードをかもし出す
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   これも山車 実際の曳山祭りは夜の華となるのでこんな感じでしょう
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       豪華な車輪は祭りに賭ける人々の勢いと誇りを感じる
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 車輪もスゴイけど見上げるとユーモラスな?七福神など人形が面白い
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これらの曳山が一斉に繰り広げる実際の祭りを見たら感動するだろうな〜〜。会館のかたの説明を聞きながら、本当の祭りを想像して「曳山」をたっぷり堪能した。
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実際の城端曳山祭り(毎年5月5日に行われる江戸時代中期より続く城端神明宮の春季祭礼)

外に出ると、Y先生が連れて行ってくれた次なる風景を楽しむ。ちょうど会館の裏手の坂を下ったところで振り返ると・・
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  昔のお金持ちの「倉庫」なんだとか。板壁と白い窓がなかなかいいです

そして次なる名所は、浄土真宗城端別院善徳寺
にわか勉強・・城端別院善徳寺は、真宗大谷派の大刹で、蓮如上人の開基から530年余りの寺。本尊は行基作と伝えられる阿弥陀如来像。宝物収蔵館では貴重な古文書や宝物を見学できる。
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                 善徳寺本堂 (この写真はHPから)

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       城端別院善徳寺の正門の内側に立つ Y先生と松井さん

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                   本堂
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             歴史の重み 重厚な柱

そして次の目的地は城端のお隣り井波。井波といえば欄間彫刻と有名な瑞泉寺
にわか勉強によると、瑞泉寺は正式には、真宗大谷派井波別院瑞泉寺・・・
井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれました。この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、大きな勢力を持っていましたが、16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいました。兵火を逃れて城端北野に移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。
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 あれっ、何だか長野の善光寺の門前通りみたい・・瑞泉寺へ続く通り
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通りは、彫刻の街井波らしく彫り物の店や昔ながらの参拝客のお土産屋が並ぶ
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               どの店にも味わいある格子戸が       
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        中を覗くと彫刻を彫っている職人さん(店主さん?)が

暮れの夕方の街や門前通りには、参拝客は誰もいなかったが、いよいよ1度は見るべき井波別院瑞泉寺へ。
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        しばし圧倒される雄大な正門の・・彫刻が素晴らしい
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     残念ながら正面の本堂は大修理中 これは左手にある太子堂
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        太子堂は境内の中でひときわ映える優雅な佇まい
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    井波の木彫りや欄間は全国的に有名 正門にみるみごとな彫刻
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     今回は見られなかったけど、建物はすべてこんな彫刻から
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           お寺の建物すべてが芸術作品
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     正門右手の、菊の紋章がついた勅使門(天皇の使者が使う門)  
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名残り惜しく瑞泉寺の境内からおいとま・・・う〜〜ん、2,30分では無理な世界  

今日は、インプットが多すぎて、欲張りな私は全てアウトプットしたがるから余白がいくらあっても足りない。Y先生は「これでもか、これでもか」と凄いところへ案内してくださった。 最後は「木彫りの里」のお土産ショップへ。ここは6年前、富大にあった日本心理学会講演に招かれたスイスのシュタイナー夫妻と若井邦夫北大名誉教授夫妻をべスさんと案内した思い出の場所。若井先生はあれから4年後に他界されて翻訳の思い出がもの悲しく甦った。
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           広い敷地には木彫りの店がいくつも並ぶ
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          富山名物?学問の神様・天神様の置物を彫って販売
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       こんなふうにどの店も店主職人さんが作業をしていた

2011年も押し迫る中、富山県でも初めての地を訪れ、素晴らしい国宝級の2つのお寺を見ることができたのは、心の世界も広がった思い。雄大な曳山も、真宗城端別院、井波別院も、みな人間の信仰の象徴かしら・・・壊れやすい心の拠り所をこのような強く豪壮な芸術に托す気持ちを、今はわかる・・・わたし。
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「機関車は私の先生」写真家大木茂さん (後編)

2011/12/09 00:53
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      大木茂写真集『機関車 よみがえる鉄路の記憶』より

以下 NHK第一ラジオ深夜便・明日へのことば 「機関車は私の先生」 2011年12月2日放送 後編

:さて東北と北海道はまた全然別ですよね。

はい、違いますねー。やっぱり当時は津軽海峡を青函連絡船に乗らないと行けませんでした。初めて北海道へ行ったとき、青森から津軽海峡を渡り、函館へ。青函連絡船に乗るので、あそこを越えるのは1つ決意が要りましたね。今の若い人で言うなら、アメリカとかヨーロッパへ行くような感覚だったと思います。札幌まで列車を乗り継いで行くと24時間かかりましたからね。遠い憧れの地でした。初めて北海道に行ったのは高校三年の時ですね。夏に東北の撮影旅行に行ってたのですが、北海道とやらへ1度行ってみたいと、青森から思い切って津軽海峡を渡って函館まで行って1日撮影して帰って来ました。夏7月なのに函館は朝晩はストーブ焚いているんです。寒かったがシャツを買えないのでタオルを買って寒さをしのぎました。

:北海道と東北は景色がまるでちがいますよね。高校生の目から見てどのように見えましたか?

思っていた以上に荒涼とした、西部劇の世界みたいな・・。広々というより荒涼とした感じ。雄大な風景ですがそれを撮る難しさもありました。雄大さをどう撮ったらいいかと。
一番苦労したのは食料でした。北海道は店がない。生活のまばらさというのが最初の印象でした。空腹を味わいました。夜行列車で朝着くと朝から何も食べず夕方やっとパンにありつけた時も何回かありました。


:この写真集の中に、「峠とは風と風が手のひらを合わせるように出会う場所。そこに上る線路の急勾配、関係者のご苦労と智恵にはいつも頭が下がる思い・・」というふうに書かれてますね。昨日の番組で機関士のかたに伺ったんですが、峠を上るのは大変ですごい苦労があるんですってね。こういう知識はどこで得られたんですか?

「峠を越える大変さ」は私が聞いた機関士のかたも言っていました。今と違って昔は停車中に運転席に自由に乗せてもらって話を聞くということができました。停車時間も長かったし。そんな時、ちょっと中を見せてください、と言って運転席に乗っかっていろんな話を聞きました。「どこで写真を撮ったらいいか」「1番苦労するのはどこどこの辺りだよ」とか貴重な情報を教えてもらいました。機関車のことも真剣に尋ねると丁寧に教えてくれましたね。機関士の方達も、高校生が一生懸命尋ねたことで、自分達の仕事に興味をもって、理解してくれてるんだなーと思ってくれたと思います。

:写真の下にちょっと書かれている文章の中で、やって来る電車を待っている情景だと思いますが、「力強い排気音がする。そして汽笛が鳴り響く。しかし音はするけどなかなか列車そのものは姿が現れて来ない」とありますね。

それは小海線のことかな。清里あたりの高原で待ってますと、あそこはC56という小さな機関車が走っていましたが、まるで小太鼓を叩くようなトントントンという音が聞こえて来るんですよ。、高原だと遠くまで響いて来るのでしょう。遠くから小さな排気音が聞こえてくるんだけどなかなか近づいて来ない。そこは33/1000というかなりの勾配で、スピードが遅いです。自転車で走るより遅い。音はすれどもなかなか姿が見えないという場所でした

:小海線は長野県ですから、緑の中で列車が走って来るんでしょうね。そういうところで高校生が一人待ち構えるわけですね。なんか絵に見えるようですね。

その高原では天気がいいと南アルプスも、富士山も勿論八ヶ岳もよく見えるところです。

:でもこの写真集は100%モノクロの写真ですよね。カラーが1つもない。これはやっぱりカラーを買うお金がなかったという高校時代の表れなんですか?

はい。当時、カラーはまだ高くてとてもじゃないけど手に入らなかったですね。

:でもこうして拝見していると、カラーよりモノクロのほうがいいという人がいますね。

商売でカラーもたくさん撮るようになり、カラーも安くなりましたけど、自分は今でもモノクロは好きですね。デジカメの時代になって今でも若い人たちがモノクロに興味を持っていると聞いて、さもありなん、と思うのは、何か表現しようという時に、あまり情報があるよりない方が表現はし易いのかなという気がしますね。モノクロという色情報がないものに関しては、単純なだけに表現する時はちょっと苦労しなければいけない。例えば森の前に黒い機関車があると同じトーンになって森の中に沈んでしまうんですよね。カラーだと緑の前に黒ですから大丈夫なんですけど。そういう苦労をしなければならないですけど。逆に単純なでけに表現が難しい、そのために込められる意志があるんじゃないかと。単純な手法なだけに想像力をかきたてるものがあるんじゃないか。色がないだけに色を感じることも出来るし、それ以上のふくらみをその中から感じることもできる、それがモノクロの魅力ではないかなと思います。

:今放送しているラジオと同じですね。そういう想像ができるモノクロって面白いですよね。
 今カラーの時代ですが、プロの写真家としてモノクロ好きですか?

はい、好きです。仕事でなければ好きですね。仕事ですと結構大変です。制約があるんで、自由にできない部分がありますのでね。
  
:実際に今お仕事なさっているのは、例えば大ヒットしました『剱岳 点の記』の映画のスチール写真を撮っておられますね。
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      『剱岳 点の記』 雄山神社にて 大木茂・撮影

はい、パンフレットとか報道用に配る資料のスチール写真を撮ることが今ぼくのやっている大きな仕事です。

:主演の人たちだとか1列に並んで雪の山を歩いている写真とか、ああいうのをお撮りになっているんですか。普通の撮影と一緒にやっているのですか?

はい、例えば雪の山で、ムービーカメラの脇で、同じ状況で撮っていくわけですよね。撮影の邪魔しないように撮っています。
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       『剱岳 点の記』 ロケ 大木茂・撮影

:『剱岳・・』で言えば同じ寒さを体験しているわけですか?

はい、本編と同じような行動をしながらやってます。
それなら本編のフィルムから抜けばいいじゃないかとよく言われるんですが、そこは素人の浅はかさで・・(笑)。
ふつうのムービーカメラはズーミングなど、自由にカメラを動かしてずーっと流します。ところがこちらはそれを1枚で表現します。表現方法が違うわけです。映画はいくつかの場面を撮って合体させたりしますが、同じシチュエーションで、1枚で表現するのです。だから必ずしも、カメラで撮ったものを抜けばいいということにはならない。スチールでなければ、というものばかりでないですが、スチールでないと表現できないものがあります。


:山で1列に並んで歩くあの写真を見ますと、これはいい写真だよなー、でもこれは映画の中の1シーンだろうなー、と私たちは思ってしまうんですよね。
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             『剱岳 点の記』大木茂・撮影

はい、でも過半数は映画と同じようなシーンで撮ってますけども、先ほど申し上げたようなことはかなりの割合であるということですね。俳優さんとの関係も努力がいります。俳優さんたちはスチールのために芝居をしているわけではないので、本番終わると力が抜けてしまう。その段階で彼らの緊張感が解けちゃう。だからスチールのために二人こっち向いてくれと頼んでもなかなかいい芝居が撮れないですよね。何とか俳優さんに協力してもらって、スチールも大切なんだとわかってもらうよう努力はしていますけれど。スチールがなくてもムービーは進むので、どうしてもスチールは現場では邪魔にされがちで、後から大切になるものだけど現場ではなかなかスチールの大切さを理解してもらえない、というなかなか辛いパートです。ですから協力してもらう努力がいる。例えば僕が撮ったものを、1日終わったら出来るだけ早く俳優さんに写真プリントにして見てもらって納得してもらい、こちらの仕事を理解してもらおうと努力はしています。そのようにして一緒に作り上げていきます。
 
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         『剱岳 点の記』ロケにて 大木茂・撮影

:しかし、そういう映画を作っている監督、俳優、様々な人との付き合いの方法、それが若い頃に一人旅で学んだことが役に立っているのでしょうね。

学校で勉強したことよりも旅で教わったことが多いと思いますね。「旅はぼくの学校だった」と僕は時々言うんですが。この道に入ったのも、学生時代、趣味で写真を撮りながら旅をしているうち、人との出会いの面白さに気づき、大学を出て技術屋になろうと思っていたんですが、旅をそのまま続けられる仕事はないかと無謀なことを考えて、たまたまちょっと写真を撮れたので、じゃ写真家になるか、と思ったことがきっかけでした。
それ以降もいろんな人との出会い、知らないところに仕事で行けて、知らないかたにお会いできてその旅の学校が今も続いている気がするんですけれど。


:これからも続きそうですね。大木さんにとっては蒸気機関車というのはやっぱり絶対必要なものだったのですね。

そうですね、入り口ではありました。 が、単に旅に連れて行ってくれたものでなく、蒸気機関車から教わったもの、鉄道から教わったものはずい分あります。 鉄道の魅力というのは、今は鉄道が注目されていますが、ぼくはちょっと考え方が違うんですね。車両にしても駅にしても、とても無機的な機械、建物、機関車だったりするのですが、 それを、重厚に作り、非常に手厚くメインテナンス して情熱を注いできた分ぬくもりが無機的なものに備わってきたその魅力ではないかと思うのです。
古い車両がいいといいますが、古いからいいのではなく、その車両をメインテナンスしてお守りした人たちの汗と努力の結晶がそこに詰まっているからじゃないかな、と思う。その典型が蒸気機関車ではないか、と。機関車というのは1両1両性格が違う。同じパートを組み合わせて作っているんだけど微妙な調整の仕方とか、その加工の仕方で性格が違うと、よく機関士の人たちが言っています。それだけ、人間が注いだ努力と技術によって、その機械に与えられたぬくもりがその機械から感じられる、そういう魅力があると思います。それがやはり鉄道趣味の中の1番中心ではないかと。
古いものがいいという単なるそういうものではなく、僕達が忘れてしまったような、物を大切に使ってそこから出てくるぬくもりみたいなものの原点という塊が、蒸気機関車としてあるような気がするんですよね。


:しかし昭和50年にJが消えてしまって、その理由の1つは効率化でした。効率化を求めてスピードは速くなった、乗り心地もよくなった、が、何かちょっと置き忘れたものがあるような・・・。

ぼくもそう思いますね。例えば、新幹線の旅は東京・大阪2時間半で便利です。しかしちょっと待てよ、もうちょっとゆっくり行っていいんじゃないか、と思うんですよね。(笑)う〜〜ん、旅って何なんだろう。ぼーっとしている時間があったり、富士山を眺めている時間があったりした方が旅として面白いんじゃないか、と。

:この写真集から見ても、「小さな駅にも駅弁売りがいるよ」といって駅弁売りの小さな子が売っていました。そんな写真が載っています。列車と乗客の連帯感みたいなのがあって、客車でもお客さんが通る通路があり、自由に動けるわけですね。これがバスでもだめ、飛行機でもため、そういう見知らぬ同士の連帯感てありますよね。

そうです、ありましたよね。もう1つ効率化の問題になるんですが、効率が悪いものはダメだという風潮になってきているでしょ。そこが本当にそうなのかな、という気がしますね。小さな駅にも駅弁売りがあった・・・今こんな効率悪いこと出来ないんですね。人件費高いし、いくら売れるかわからないところに人を配置することはできないということになっちゃったんだけど、当時はそういう小さな商売でもやってきたんですね。小さな商売でも慎ましく暮らしてきた人たちがたくさんいたんですよね。そういう人たちがみな集まってお互いに支えあって生活していた。そういう生活が効率化のもとに掃き捨てられてしまった。機関車もその象徴だった気がします。蒸気機関車に象徴される使い捨て文化になってきた昨今の疑問というものを痛切に感じます。特に今年の震災なんか見ると、我々の生活をちょっと考え直したほうがいいんじゃないかな。後戻りというんじゃなくて、不便なのが良かったというんじゃないけれど、便利なのはいいことだと思うんだけど、何かもうちょっと「あの当時の良さ」というものを考える必要があるんじゃないかと。それが我々の生活をもうちょっと心豊かにしていくヒントになるんじゃないかな、という気がします。

:そうですね。経済より心豊かになるというそういう考え方は確かにありますね。 でも、後戻りはできない。難しいところですね。は元には戻りません。その中で機関車のぬくもりをどうやって感じさせるかというのが必要なんでしょうね。
でもまだ大木さんの中ではまだ機関車が走り続けているわけですから羨ましいですね。

いや、単にノー天気に考えているだけだと思いますけれど。生産的ではないかもしれないけどそういうところにもうちょっと立ち返ってみても、より豊かに生きるヒントがあるんじゃないかと思います。

:蒸気機関車を通して様々なお話を伺ってきましたが、どうもありがとうございました。


さて、東京新聞にこんな記事が載りました。(「明日も晴れ」より)
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NHKラジオ深夜便・明日へのことば 「機関車は私の先生」写真家大木茂さん

2011/12/08 20:55
NHKラジオ第一で、12月2日(金)早朝4時〜4時40分、有名な「ラジオ深夜便」という番組の「明日へのことば」というジャンルに、『剱岳 点の記』のスチールカメラマン大木茂さんが出演されました。
放送後、感動の反響が寄せられ、新聞の投書欄にも載りました。私のCASABLANCAで書いた大木さんの写真集出版のページにもアクセスがたくさん。私も含め早朝で聞けなかった人たちのために、(再放送も望みますが)北海道の知人に録音してもらいやっと届いた40分の番組テープを起こし、ぜひ素敵なお話を知っていただきたく、このページに再現しました。

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今回の番組出演は3月出版の大木茂写真集『汽罐車 よみがえる鉄路の記憶 1963-72』をもとに
写真集は:http://home.t01.itscom.net/ohki-ph/PhotoKikwansyaPR.htm

以下は番組から・・・・
 NHKラジオ深夜便『明日へのことば』―蒸気機関車は私の先生(その2)
今日は昭和38年から全国を旅して蒸気機関車を撮り続けプロのカメラマンになった大木茂さんです。
当時はまだ機関車をカメラに納める鉄道ファンも少ない時代で、大木少年は旅の途中で出あった鉄道員や地域に暮らす人々に学校では学べない様々なことを教わって大人になりました。大木さんはこのほど『よみがえる鉄路の記憶 機関車』という写真集を出し、そこには勇壮な機関車ばかりではなく今では遠くなった昭和の日本の風景や人々の営みが写されています。
では、「蒸気機関車は私の先生」プロカメラマンの大木茂さんに佐野ディレクターがお話を伺います。


S:大木さんが今年3月写真集『機関車1963―1972 よみがえる鉄路の記憶』を出されましたが、この表紙の年代1963-72というのはつまり「蒸気機関車の時代」。いつ頃J(蒸気機関車)に興味を持つようになりました?

63年というのは僕が高校に入った年です。乗り物全般が好きで興味を持っていました。特に飛行機。俗に飛行(非行?)少年というのですが。しかし当時はあまり身近な存在ではなく憧れでした。高校の同級生で蒸気機関車が好きなのがいて、彼の写真を見せられて急激に蒸気機関車にのめり込んでいきました。 当時小学生中学生の一人旅は多くなかったと思います。
当時は高度経済成長の時代、父親は企業戦士でどこかへ連れて行って、と頼んでも家族旅行など連れていってもらえなかったです。それで高校1年に初めて一人旅が許されて写真を撮りに行った先が蒸気機関車だったということです。


:確かに写真を拝見していると、J(以下蒸気機関車を指す)はカッコイイよな、と思うし、煙をもくもくと吐いていますから、いや〜、男らしくていいよな!と思うのですが、その写真集に時々コメントがしてありますね。ちょっといいコメントを見つけたのでそこから入りたいと思います。写真集の目次のページに「蒸気機関車の営業運転がなくなってから35年余りが過ぎたが、僕の記憶の中ではまだ”機関車“が走り続けている」と書いてありますね。まだ走り続けているのですか?

そうですね、これは不思議なことかも知れませんけど、例えば人との別れを考えた時、その人を思い出すのは最後の顔なんですよね。そしてその人の声は、最初に聞いた声が記憶に残るそうです。僕もと別れて40年近く経つのですけれど、頭の中には最後に見た蒸気機関車が頭に残っています。例えば山形の米坂線や福島県の会津線によく行ったのですが、今でも米坂線に行くとが走っているんじゃないかという感覚を覚えるんですよね。

もう蒸気機関車がなくなってから随分時が経ちました。実際にJが走っているのを見る今の子ども達はもういないわけですが、でもこどもたちはが走っている姿を見ればかっこいいな、と思っているはずですよね。

そうですね。確かに機械なんですが、蒸気が吹き出したり煙が出てきたり、まるで命を持っている生き物のような姿、それが魅力的だと思うのです。その魅力に多くの人が、蒸気機関車はいいな、とおっしゃるんだと思うんですが。
が、ぼくはちょっと違う見方をしているんです。今、1度終わりになったを整備し直した「復活蒸気」として動かしていますが、形は同じだけど・・・ちょっと違うように思います。昔は生活を運ぶために動いていたJで、言わば「用」の美、役に立っていた美しさと健気さがあった。しかし今の観光。実用になっていないその差、それが残念。
例えば、煙が出ることが魅力でみなそこを見たいのですが、本来夏は煙はあまり見えないのです。煙というのは完全燃焼させると見えないもの、完全燃焼させると透明な煙しか出てこない。でもそれが本来の美しい煙なんです。でもそれでは観光のため苦情が出るから機関士はむりやり不完全燃焼させて煙を出している。それは本来からいうとあまり美しい姿ではないんですよね。


ところで大木さんは勉強そっちのけて高校時代はJに走ったわけですね?

ええ、には魅力を感じました。自体は熱効率の悪い乗り物なんです。石炭のエネルギーの7%しか使ってないような、時代遅れのどうしようもない機械であったので、子供心にも「無駄なことをやっているこんなの意味ないんじゃないか」と思ったりもしました。勿論、煙を吐いてカッコよさという魅力もありましたが。
それからもう1つぼくは、写真を撮りに行くと言ってるけど知らないところへふらふらと旅に行く、その面白さが大きかったですね。


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        『機関車 よみがえる鉄路の記憶1963-1962』より

なるほど。高校時代は行きっぱなしのような状況で行ってましたよね。でもお金も必要ですね?

ずい分節約しました。夜行列車を何日も乗り継いで宿代わりにしたり、寝袋も持って駅で泊めてもらったり。それが高校2年の時、初めての連続した12日間の東北の旅行だったわけですが、11泊のうち10泊は汽車に泊まりました。当時、12日間均一周遊券というのがあって、急行普通席は乗り放題。東北なら東北地区を自由に乗り回せる。 南から北、そして南へ、西へ、と東北ぐるぐる旅をしました。夜行で寝て、昼間撮影、というふうに。さすがに1泊は商人宿に泊まりましたが。11泊12日の旅でした。

よくもちましたね。沢山撮りました?

:居眠りもしました。線路端で待って居眠りしてしまい気づいたら列車は通り過ぎていたことも。

当時は電車の通る時刻などの情報もないでしょう。

ごく1部、マニア向けの鉄道の雑誌も出ていました。ここへ行くとこんな写真が撮れるという写真も載っていたり。ただこの駅とこの駅の間、くらいの情報なので、その駅で降りてとぼとぼと線路伝いに歩いて行くわけです。列車の時間なども時刻表を見ながらの手探り、自分なりの情報と予測で、何時にはここを通るだろう、とか。
そして当時は鉄道写真を撮るのは珍しかったですね。プロは一人だけ。鉄道写真というジャンルはなかったです。現場に行っても国鉄の職員の人から「こんな写真撮ってどうするんだよ」と言われたり。変人扱いされていましたね。


駅にも泊めてもらったんですね。

はい、夜行列車の連続はきついので反省しまして、山岳部にも入っていたのもですから寝袋を持って、駅に泊めてもらうことにしました。南の地方は駅が開放されていて戸がないのですが北の地方は駅は閉めてしまいます。本当はいけないのですが、こちらもある種の規範を持って、終列車の後に寝袋を広げ、始発の前に畳む、汚さない、迷惑はかけない、とお願いして。今と違って融通が効いた時代で、誠意をもって頭を下げれば許してもらえた時代でした。  

人との接し方も学んだわけですね。叱られたこともあるでしょう?


そうですね、親から教えてもらうことも多いでしょうが限界があると思います。
一人旅でしたから自分の知識の中でいろんなことをやるんだけど、やっぱり習慣も違う、考え方も違うところに行ったところで随分いろんなことにぶつかりました。例えば駅に行って列車の時間を聞きたいと、「すみません、列車の時間教えてください」と駅にとび込みますと「猫じゃないんだからちゃんと挨拶しろ」などと怒られたり。「すみません」だけではだめなんですね。高校生って、ちゃんと「私はこういう者でこういうところから来て・・」と言えなかったんだけどそういうことは最低言わなければいけないんだな、ということを教わったり。いろんなことを教わりましたね。


S: 見知らぬ人と接するのは若い頃はすごい勉強になりますよね。

はい、初めての経験ばかり。どうすれば意思が通じるか、いろんなケース、いろんな方と会うわけですからね、共通の挨拶の仕方、最低限の挨拶の仕方、というのがだんだんわかってきました。また、地元の人の好意に助けられた連続でした。
最初は東北が多かったです。僕は寒いところの雪が好きだったから。均一周遊券も東北は安く、当時学割りで2400円くらいでした。


また東北には東北本線、奥羽本線、羽越線、只見線、とかいろいろ本線ではない線もありますよね。

:はい、蒸気機関車が走っているところはみんな周って来ました。あど東北では10種類くらいの機関車があり貨物列車が4種類、旅客列車が7種類くらいだったかな。それぞれの線区で機関車が違っていたので、この機関車を撮りたいときはあそこ、というふうに学校の勉強しないでそんなことばっかりやってました。

前編終わり  後編は明日掲載します―

大木茂さん(Wikipedia より)
大木茂(おおき しげる、1947年10月 - )は、日本のフリーカメラマン、鉄道写真家。東京都世田谷区出身。東京都立新宿高等学校を経て、早稲田大学理工学部電気工学科卒。日本写真家協会会員。

略歴 :高校時代に蒸気機関車の魅力の虜となり、写真を撮り始める。大学時代に写真集『北辺の機関車たち』を仲間3人と共著で出版し、鉄道趣味界はもとより各方面から高い評価を受ける。大学卒業後は、朝日新聞を中心として、報道写真、各種写真出版物など幅広い分野で活躍。海外取材を数多くこなす。鉄道写真関係ではJRPS(日本鉄道写真作家協会)に創立メンバーとして参加する。鉄道写真におけるズーム流し技法[1]を考案するとともに、デジタルカメラの黎明期からデジタル写真作品を多数発表して注目を集める。モノクロームの鉄道写真に関してはそのカメラアイの素晴らしさと、作品の美しさで他者の追随を許さない。最近は多彩な経験を生かして日本映画のスティル写真撮影を中心に活躍中。


Casablanca in the Valley で書いた大木さんのページ
http://marilyn-m.at.webry.info/201103/article_2.html
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英語は楽しい・・・・小学校の外国語活動

2011/12/02 23:38
今日は、私が昨年まで7年間関係していた小学校の、恒例の冬の研究会。多くの議論の末、今年から全国の小学校で必修化された英語活動の授業研究も行われるというので、辞めて以来1年8ヶ月ぶりに参観者として教室を訪れたパートナーだったジョシュアさんの楽しいperformance も見たかったし、実際の授業も興味がある。

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お客さんとして来るのは面映い・・富大附属小(隣りの中学も入れると16年間ここに通った)

今日の授業は、もちろん名優、いやALTのジョシュアさん。もう5年目?楽しいクラスは彼のteaching と演技とキャラクターに負うところ大であった。私の教案を150%の出来栄えで仕上げてくれた。本業は牧師さん、大学でも教え、家庭ではほんとに優しい理想の父親でありハズバンド。 Heart も Brain も Bigな人である。
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       この豊かな表情で子ども達をひきつける Hello!    

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今日は5年2組の授業、担任のM先生と。 M先生も負けずに名優、のりのりでリズム感抜群

今日の英語活動のタイトルは『カナッペ パーティを 開こう!』。主として「聞く」活動に重点・意識をおいて展開ということ。
英語は、カナッペのトッピングにする食べ物(果物やサラミ、ケチャップなど)の名前が登場、そして What do you want? 〜、please. という表現に慣れること。また、バナナ、トマト、ケチャップなど、外来語と英語の発音の違いなど。

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ウォーミング・アップとして初めに絵本の読み聞かせ "Kechup on Your Cornflake" 納豆にケチャップとかいろいろヘンな取り合わせを見せて 子ども達からNo! No! という反応を引き出す

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    研究会なので外部からの見学の先生や大学生たちがいっぱい
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あら、怖い? 英語教育Gメン?のT先生はこのあとの授業協議会のためしっかり細かにチェックしておられました。 
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 カナッペのトッピングもでそろって ここからは二人の息の見せどころ
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            リズムをとって単語の発音練習
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外来語で「バナナ」と言うときと英語で banana というときはどう違う?
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           Let's repeat after Joshua-sensei.    

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  おやおや、M先生はエプロンとナプキン取り出して・・授業を盛り上げるためならナンだって!   
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          Joshua先生の本領を発揮してますね〜〜 
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 M先生もユーモラスに奮闘してます できるだけ英語を使って授業しようという心がけが素晴らしい
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              富大の学生さんも真剣に見学
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        つぎつぎに多彩なメニューで進行 飽きさせません
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本校の先生の写真を使ってどの先生がどのカナッペを注文したかって? このへんは私の好きなユーモアおふざけパターンだ 子ども達にも大うけ!
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          子どもたちも自分のカナッペを作ってみます
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   M先生自作のビデオも見せながら様々な工夫が盛り込まれていました

45分間の楽しい授業が終わりました。子ども達の楽しい笑顔と笑い。多彩なメニューで最後まで飽きさせず、そして子ども達の頭には繰り返し聞き、発したいくつかの英語が焼きついたことだろう。
授業は劇場である!というのが私の授業観。山あり谷あり、盛り上げて、且つストーリー(一貫性)があり・・・なーんて。ジョシュアさんは相変わらずの名優だし、M先生もほんとに歌って踊れる演技派! やはり、自作の教材(ビデオやパソコン)も大きな武器。たくさんの時間がかかったことだろうと思うが、それが効果を発したときの嬉しさが次へのエネルギーになったっけ・・・。
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Good-bye! 笑顔で教室を出るJoshuaさん  いつまでも富山にいて欲しい!!!のに・・。
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11・23 キックオフ!! 脱原発をめざす女たちの会

2011/11/28 23:27
東京で、こんな会が生まれ、スタートしたことを、富山にいる私が知ったのは、東京の友人大木晴子さんのHP『明日も晴れ』からでした。このページは私もここで何回か紹介したことがあります。今日は晴子さんのページの写真をお借りし、掲載された動画を見て、『脱原発をめざす女たちの会』をお知らせしたいと思います。 http://www.seiko-jiro.net/
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今年10月半ばに『明日も晴れ』にこんな写真とお知らせが載りました。
    『11・23キックオフ!!脱原発をめざす女たちの会』 発足!
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               東京新聞 10/17 朝刊

        時 2011年11月23日(水・祝) 
        開場 午後1時  開演 午後1時30分    会場・「座・高円寺2」
        杉並区立杉並芸術会館地下2階:JR中央線高円寺駅北口徒歩5分


[ 神奈川新聞より] 文化人、医師、法律家や政治家など、多彩な女性たちによる「脱原発をめざす女たちの会」が来月発足する。活動の裾野を広げるとともに、継続的な取り組みを行うことで、ムードを停滞させずに脱原発を実現することが狙い。11月23日に都内でキックオフ集会を開く。
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             発足記者会見 参院議員会館にて

11日に参院議員会館で開かれた発表会見には、評論家の吉武輝子さん、脚本家の小山内美江子さん、精神科医の香山リカさん、講談師の神田香織さん、ミュージシャンの橋本美香さん、参院議員福島瑞穂さんらが出席。

  同会は、年に複数回の集会開催や、現場で脱原発の活動に取り組む人たちへの応援などを行う方針。賛同人として、俳優の吉永小百合さん、竹下景子さん、作家の落合恵子さんらが名を連ねている。



晴子さんのHPを見ると、この記事は掲載後たちまちすごい反響で1ヶ月のうちに16000を越える異例のアクセス数だったことがわかる。女優さんの写真や名前が出ていることへの好奇心もあっただろうが、「女性達の脱原発」というのは、直接生命を生み守っていく女性たちが今、どれほど原発に不安と怒りを持っているのかを象徴しているのではないだろうか。

アクセス数とともに、その11月23日(祝日)がやって来て、私は、地方の新聞にもTVにも報道されないその「11・23 脱原発をめざす女たちの会」の様子が知りたくて、朝から『明日も晴れ』からの発信を待っていた。それより前から、整理券を発行することなどの知らせがあったが、大木晴子さんも、ご自身が大変な病を抱え、体調もその日はあまりすぐれないことが伺える中、会場へ入る整理券を得るため早くから高円寺へ向かっていらした。(晴子さんは自分の体や病気より使命感のほうを優先するかた、このキックオフの会への参加とその様子を全国に伝えるために必死だった。) 晴子さんの疲労と体調回復を2,3日待って、とうとう当日の女性の意気込みが写真と動画で届けられた!


「11・23 脱原発をめざす女たちの会」 当日以下、写真は、大木晴子さんの『明日も晴れ』からお借りしました。またURLも。
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会場は杉並区高円寺の杉並区立杉並芸術会館 『座・高円寺』
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                   開会宣言
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中学生の藤波心さんの開会前言で始まった! 原稿も見ずに脱原発への思いを堂々と語った

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まず最初に加藤登紀子さんが登場 3.11の被災地のかたを思って作った自作の歌「今 どこにいますか」を歌う
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登紀子さんは大震災の発生以来、東北の被災地を何度も訪れて歌で被災地を励ましてきた。原発への反対姿勢は震災前から一貫している。「福島の事故を待つまでもなく、非常に危険で恐ろしい。そんなものに頼らなくてもやっていける」との思いを熱く語った。 昔より変わることなく、優しくおおらかで強い生き方に、勇気が与えられる・・。

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その後壇上へは各界で活躍されている女性の方たちが上って、5分間くらいずつ次々と脱原発への思いを語った。左は講談師の神田香織さん、右は法政大社会学部教授田中優子さん
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私たちの青春の歌「フランシーヌの場合」を聞かせてくれた歌手の新谷のり子さん。素敵に年を重ねられて脱原発への願いを
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   女優の岩崎加根子さんも訴えます 
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    左は中山千夏さんですね、なつかしい・・・
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    参院議員の福島瑞穂さんの訴えは胸に響きます
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左上は作家の山崎朋子さん 若かりし頃読んだ彼女の著書『サンダカン八番娼館』は衝撃的でしたが、彼女の今日の話も美しい声とイントネーションでほんとに素敵でした。当時と同じヘアースタイルに彼女の心の傷を思い出しました。

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1つの方向に向かって こんなにも多くの女性が立ち上がったことにびっくり、そして感動

その他多くの方々が壇上で短い間にも強くしっかりとアピールし、そのspeechを聞いていると、日本には、私の知らないところで、何と多くの素晴らしい女性たちが、大地にすくと立って力強く行動しているのだろう、と感嘆した。 九州や福井、静岡など全国の原発地域で反対運動をしてきた方も多い。落ち着いて堂々と、自身の反対運動の長い道のりを凝縮して語る言葉が心に焼きついた。

最後に、閉会の言葉を言われるため登場された、評論家の吉武輝子さんの姿を見て言葉を呑んだ。 キャリーばっぐを引いて出て来られたので、「あれ? もう帰りの準備でバッグのまま??」と思ったのは一瞬、それは「昨日退院してきました」ということで酸素ボンベが入っていたのだ。お顔には痛々しく・・・
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           酸素吸入をしながら・・・吉武輝子さん

それなのに、なんと力強く、原発の非を訴えられたことか! 「私はとうの昔から原発には一貫して反対してきたのです。次の世代へは子ども達が幸せに安全に住める場所を託さなければ。それは私たちの責任。」
最後に今日の、『脱原発をめざす女たちの会』の宣言が発表された。今日の会場は定員400人で満杯、第2第3会場でネット中継参加となったほど盛会だった。喉元過ぎれば熱さを忘れ、事故から8ヶ月も経つと「ほとぼり」の冷めるのを待って原発を再開しようとしている人たちの姿がそろそろ見え隠れしてきている。この恐さを忘れてはならないのだ、生命を守る女たちは。

今日の会の動画は以下のサイトをクリックして見ることができます。

「111123 脱原発をめざす女たちの会3」
http://www.ustream.tv/recorded/18694117
2011-11-23 脱原発をめざす女たちの会 キックオフ集会 (1/5)
http://www.youtube.com/user/FukushimaMizuho#p/f/4/SL2fTE6FDyg
2011-11-23 脱原発をめざす女たちの会 キックオフ集会 (2/5)
http://www.youtube.com/user/FukushimaMizuho#p/f/3/ArzWMpbX5-k
2011-11-23 脱原発をめざす女たちの会 キックオフ集会 (3/5)
http://www.youtube.com/user/FukushimaMizuho#p/f/2/KuNoSp8gjYA
2011-11-23 脱原発をめざす女たちの会 キックオフ集会 (4/5)
http://www.youtube.com/user/FukushimaMizuho#p/f/1/8_QUgTqm2Dc
2011-11-23 脱原発をめざす女たちの会 キックオフ集会 (5/5)
http://www.youtube.com/user/FukushimaMizuho#p/f/0/in0bvXzTz3U


ところで、今日の写真は現場にも行かず、撮影者であり「明日も晴れ」の主である大木晴子さんからみなお借りしたことを感謝です。晴子さんの「人物写真」の腕は最近ますます磨かれている様子。ご主人の写真家大木茂さんのオーラが伝わるから〜〜??それとも一眼レフの素晴らしいカメラのせい?・・と。いいえ、その人物に深く迫り、共感する姿勢が写真に表れるのですね。
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                    大木晴子さん
[追記]
晴子さんのご主人大木茂さんがNHKラジオ深夜便で語ります。
明日へのことば「機関車は私の先生」(2)
ゲスト:大木茂 (プロカメラマン)放送日時:12月2日(金)午前4:00〜4:40 数分のずれがあるかも知れません)

大木さんは今年3月ご自身が青春時代に撮った機関車の写真集を出版
 http://marilyn-m.at.webry.info/201103/article_2.html
 http://home.t01.itscom.net/ohki-ph/PhotoKikwansyaPR.htm
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『Railways 愛を伝えられない大人たちへ』 富山の風景・人・言葉

2011/11/21 23:11
    『Railways ― 愛を伝えられない大人たちへ』 富山県先行上映
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             12月3日(土)全国ロードショー

4月に我が家の隣りの公園で延べ3,4日間ロケをしていたので1日は野次馬になった。三浦友和さん演じる富山地方鉄道の運転手さんの自宅(空いていた民家を借りて)がこの公園の脇にあるという設定で、友和さんが家に帰るシーンを何回も何回も、昼間から夜になっても撮影していた。友和さんの姿を宵闇の中で見ていたのだが、11月19日の富山県先行ロードショーには『剱岳 点の記』の時のように混雑の中に駆けつけようとは思っていなかった。

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これは定年間近の地鉄電車の運転手とその妻が迎えた人生の分岐点のお話

その19日(土)も翌日20日(日)も富山は時々どしゃぶりの雨。映画に行く元気はなかったが、いつものように日曜日の夕方は何とも言えずブルーな気分になり、何とかしなくては!と突如、ますます激しくなる雨の中をファボーレTOHOへ車を飛ばした。突然決めたから(考えてみると1週間後2週間後は仕事がつまって)、開演の18:50には間に合いそうもなかったけど。(幸いまだ映画は始まっていなかった)

雨とこの時間帯のせいか何とこの会場は20人ほどのゆったりムード。私にとって、今年2度目の映画館。

見終わった感想は?
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              常願寺川を渡る地鉄電車

ほんとにほんとに、富山弁をたっぷり味わったな〜〜!と。その富山弁はみな自然でとても上手と思ったのは非ネイティブの私だから? そして富山の風景。ロケ地が評判だったように立山連峰富山地方鉄道の路線のこの上ない雄大な景色がふんだんに味わえる。電車に乗ってる乗客として見る風景も素晴らしい。まさに富山の映画!そしてお馴染みの場所もいっぱい。たくさん出るのは家の近くの地鉄南富山駅。そして呉羽山の展望台。松川べり。もちろん、家の傍の公園も。富山赤十字病院も。

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主人公は定年間近の無事故無違反の地鉄運転手 三浦友和さん

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 映画の冒頭は奥さんの余貴美子さんとの激しいけんかでびっくり

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新米運転手の小田とベテランの滝島(三浦)の対照的な取り合わせがとてもよかった  
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          今、二人はそれぞれの悩みを抱える

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夫の反対を押し切って家を出て生き生きと訪問看護師の仕事をする妻                

妻は理解し合えない夫に離婚届をつき付け家を出、夫は定年もあと1ヶ月足らずというときに、予想外の戸惑いと苦しみを味わうが、私はなぜか終始、日々むっつりと萎れていく友和さんの後姿に心を寄せる・・。言わば滝島はよくある典型的な日本の男(夫)。友和さんが意図したという、「滝島」の(誰もが持っている)人間的弱さに私は共感したのだろう。 

余貴美子さんのファンである私だが、この映画での余さんは、まさに富山の「中年女性」で熱演・・・。   中で、新米運転手の小田役の中尾さんの存在とキャラクターがとても良かった。深刻になりそうなストーリーをとても和ませてくれて彼が出てくると思わずほっとして微笑んでしまった。

だが、とある偶然の事件から、二人はお互いの存在と気持ちに気づいて・・・・。それなのに富山市役所へ離婚届を提出した滝島だが。(そこの部分がちょっと不可解だったが、友和さんは一般論として自伝でこう言っていた。「30年以上も妻の気持ちに気づいていなかったとしたら、夫失格・・・離婚しなくてはいけないでしょうね、けじめとして」)

やがて定年のその日を迎える。

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42年間の最後の電車を走らせる滝島の思いと、同僚達の見送る笑顔、沿線には娘の姿も・・・。ここで何度も胸と涙がつまった。

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途中の風景も滝島の気持ちで見ると美しいだけ哀しさがある。男、というよりも、人間として、身を粉にして真面目に真摯に人生を全うしてきた者への愛情と敬意を感じて・・・。

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やがて終点の地鉄富山駅に電車が入ると、ホームに妻の姿があった・・・。

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        二人は再び・・・?  松川沿いの桜が美しい

実は友人のCさんがfacebookに「初日を観て来ました」と書いていたのを見たので急にどうしても行きたくなったかもしれない。以下facebook でのやりとり。

CさんRailways の先行ロードショーをレイトで見てきた。なかなか面白かった。洋画より邦画のほうが面白くなってきた。最後は見る人の解釈は異なるかな・・・

Nさん昨日みました。西武線住民なので「レッドアロー」にも親しみがあります。

Cエンディングの解釈は見る人によって異なります。Mさんの人生観なら、どう写るかな?是非見てきてください。何回か、泣きそうになりました。.

Cさんの感想コメントに惹かれて今夜一人で行ってきました。私も何回か泣きそうになりました。主人公の友和さんがこれで定年という最後の運転シーンが・・・涙。 最後ね・・あの二人は別れることはないでしょ、別れるなんて悲しすぎます。私は何故か終始友和さんに同情していました。そのつもりなかったけど、帰りに友和さんの最近発刊となった『相性』を買ってきました。 

Cあの後、もちろん、二人は物理的にはわかれないと思いますが、私が言っているのはエンディングシーンのことですよ。駅で降りる妻、駅からまっすぐに伸びる一本道のレイルウエイを自らの手で運転する夫。二人は生き方を変えるのか?それとも変えないのか?見る人に何を暗示しているのか考えさせるものでした。

[追記] 11月25日
19日(土)から富山でロードショーが始まって3日間で1万人を超えたそうです。(北日本新聞より)
また、24日(金)のNHK朝イチ!プレミアムトークで、三浦友和さんが出演、映画Railways を基調にインタビューで話されていました。 
明日26日(土)は午前から各映画館で三浦さんと余貴美子さんの舞台挨拶、午後3時からは大和のグランドプラザでお二人のトークショーがあるあるそうです。

[追記] 11月29日
『Railways 愛を伝えられない大人たちへ』は富山先行ロードショー開始から10日間で観客数3万人を超えたということです。
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富山八雲会秋のイベント 「ヘルンさん訪問ツァー」

2011/11/18 19:13
11月13日(日)午後、八雲会の今秋のイベント『富山の宝を探そう・・ヘルンさん訪問ツァー』が行われた。小泉八雲とその作品、そして富山大学にあるヘルン文庫のいわれなど、富山県の人々(今回は特に子どもたち)に知らせる行事で、バスもチャーターして富大図書館→岩瀬の馬場邸と旧制富山高等学校跡地(馬場記念公園)をたどるツァーである。

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当日富山大学5Fにあるヘルン文庫を見学する参加者たち  図書館員で八雲会員の栗林さんの説明は熱意溢れる 富山新聞より 11/15

バスに乗ってまず富大へ集合した参加者は2グループに分かれ、「英語紙芝居&ハーンの一生を描いたフレスコ壁画」と「ヘルン文庫」それぞれ交代で見学。 呼びかけた小学校、岩瀬の萩浦小学校、富大附属小学校から子ども達11名を含む一般参加者35名、会員22名が参加し、定員40名ははるかに超えたのでめでたしめでたし。

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    今回は「だんごをなくしたおばあさん」人数で頑張る! 図書館2階

やっと終わった〜〜〜、2回で計30分ほどのパフォーマンスだけど、やっぱり終わるとほっとする。さて参加者は次に隣りの2階ロビーにあるフレスコ画(富大の丹羽洋介教授作・ハーンの一生を描いたもの)を見学し会員の木下晶先生から説明を聞く。
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               フレスコ画の前で

図書館での予定を終えて、参加者はバスで、港の町岩瀬(富山市)に移動。ここには、ヘルン文庫が富山へきた当初の旧制富山高等学校跡地があり、そこにヘルン文庫の跡地の石碑も建っている。また旧制富山高校やヘルン文庫のために私財を寄贈した日本海屈指の廻船問屋馬場家も現存している。

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馬場家の当主で八雲会会長の馬場是久氏のお話を聞く(祖母はるさんについて・ 馬場家にて)

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近くのライトレール蓮町駅前にある馬場記念公園で会員の犬島肇先生より旧制富山高校とヘルン文庫についてお話を聞く (ヘルン文庫跡の石碑の前で)

今の子ども達には小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とはどんな人なのか、(大学生さえも)知識は薄い。年配の大人のほうがついハーンへの思いがつのり熱情的に説明し、紙芝居パフォーマンスなども熱が入る。昔は、みな中学か高校の英語の教科書にハーンの作品の1つや2つは当たり前に出ていたものだ。「むじな」はその代表。

富山になぜヘルン文庫があるのか、それは県民の宝であるから後の世代まで繋いで欲しい。でも、小泉八雲(ハーン or ヘルン)その人の価値や偉大さをまず知っていなければヘルン文庫の存在は意味が薄れてしまうのでは・・。

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参加者と八雲会員とツァー成功の記念写真 ヘルン文庫跡記念碑を囲んで

イギリス・ロンドンのハイドパークに佇まいが似ているというこの馬場記念公園(旧制富山高校跡地)には、ヘルン文庫を誘致した初代高校長の英文学者南日恒太郎氏の銅像と、旧制高校とヘルン文庫設立のため多額の寄付をした馬場はるさんの銅像も静かに佇む。 秋の日差しに銀杏の葉が黄金に輝き、何とも美しい優雅な木々の姿が公園を彩どっていた。
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三輪田学園と校長先生

2011/11/11 22:22
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三輪田学園は漢学者三輪田真佐子が明治20年創立した古き由緒ある学校

息子がNYで知り合った多くの日本人の方々の中に、東京の三輪田学園高校の卒業生のかたがいるという。息子を介して、そのかたと思い出を少しやりとりすると、私がいた当時のなつかしい先生方の名前が浮かんできた。「それでは 西先生ってご存知?」という質問にこんな返事が・・・。(私に直接ではないが)

 西先生!校長先生だった!うちの母親が学校説明会で西先生に惚れ込んで、三輪田に決めたんです。在校生の名前全員覚えていらしたし、いつでも声かけてくれて、凄く良い先生でした〜。

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        西 惇 校長先生 (校長在職平成5年4月〜平成21年4月)

私は大学を卒業してこの千代田区九段北にある三輪田学園に就職し、子どもが生まれる直前まで2年9ヶ月(今から思うと僅かな期間)勤めた。三輪田学園は私立の女子校で、当時1学年4クラスで中学高校合わせて24クラス生徒数960人の学校、先生方の85%は私の母校大学の出身(故に女性)、男の先生は数人だった。

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                      三輪田学園玄関 
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全校舎が2010年までに新築された  当時からあるオールウェザーコートの中庭

西先生は私より2年あとに入ってこられた。(私が新婚旅行から帰って翌日新学期に臨んで出勤すると、倫社のニューフェイス教師として教員室で挨拶されたが、その時は男性教師が彼も入れて4人入った。(西先生は私よりも年上である)
言わば彼は後輩にあたるのだが、「後輩」なんてとんでもない、私にはカルチュアショックのようなスゴイかただった。

当時、戦前の女高師出身の蒼々たる方々も多くいらして、まさに女大学のような職場だったが、職員会議などで、少ない男性の中で、冷静且つ穏やか、論理的且つ明瞭爽やかに意見を述べられる西先生の存在感は圧倒的になっていった。教師としても人間としても未熟そのものの私には違う星から来た人のように思えたのだった。

彼は哲学科出身だったが、日常はユーモア一杯、友達感覚のフレンドリーな人で、若い仲間たちは時々、学校帰りに近くの私学会館(今はアルカディア市谷)でわいわい議論しながら食事をして帰った。そうそう、西先生を中心に組合活動も盛り上がっていったものだ。彼は思想的に自分の柱を持っているが、決してそれを日常に現したり人に押し付けたりしない。
もちろん、その授業と優しい人柄で、生徒からも信頼され人気を得たのは言うまでもない・・・!

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懐かしい写真・5月 軽井沢の三輪田学園追分寮での研修会にて 浅間山を背景に後列右端が西先生  前列に今は亡き三輪田元則校長先生も
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中三の信州旅行美ヶ原にて・西先生。後の校長三輪田芳子先生、体育のH先生等とフォークダンス 昭和48年6月

あれから長い年月が経った。 私は西先生とは1年足らずの同僚で、教職を去った。 彼が46歳のとき、三輪田学園の校長になった、というのはビッグ・ニュースだった。それまでは三輪田家の世襲だったし、自他共に保守的で名門意識のイメージある三輪田の校長先生、組合活動も積極的で左翼的な西先生が、しかもその若さでなろうとは思ってもいなかった。けれど、彼の人間性と校長としての的確性にだれも異を唱えるはずはなく、それまでの20年間で彼がどれほど大きな存在になっていたかは想像に難くない。

 一昨年、彼は定年で16年間(という異例の長さの)校長職からリタイアした。
その時、[三輪田学園に関連する掲示板] というネット投稿サイトに三輪田学園保護者(母親たち)からたくさんの投稿があった!(のを見つけた)
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?490,1229058
さよなら、西先生!

 西惇校長先生が三月末で校長先生をお辞めになるそうです。 4月から一年間は、引継ぎで嘱託として学校に残られるそうですが。 もう、ショックでたまりません。 西先生のお話に魅了されて三輪田を志望したのです。
娘が西先生のお手から卒業証書をいただくことを 夢見ておりましたのに・・・・。でも、西先生が学校を去られても、16年間の西校長の薫陶は120年の三輪田学園の歴史にずっと刻まれることでしょう。 西先生、本当にありがとうございました。(投稿者 誠の道 )


  我が家も今日は帰ってくるなり「大ショック!!西先生退職されるんだって〜〜」と娘は半泣きでした。
中1の頃はよく校長室に遊びに行かせていただいたのに 成長するにつれて友達と過ごす時間が多くなり校長室とも疎遠になっていたのが悔やまれるようでした。
保護者としても「校長室の窓」へ一度もお返事差し上げなかったのが深く悔やまれます。
いつも西先生の含蓄のあるメッセージに心を動かされながら、ついつい一言のコメントも差し上げることなく、過ごしてしまいました。 誠の道さま同様、卒業証書は西先生からいただくつもりでおりましたのに、本当に残念でなりません。(高1母)

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               平成23年度 三輪田祭 HPより

 私は中一の三輪田生です。 昨日、西校長先生が、「えー、では、今年退職される先生を紹介しようとおもいます。退職する方は・・・・・・私です!!!」 と言った時は、おもわず 「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!???」と叫んでしまいました。
そのときは、ドッキリだと思っていたのですが、ドッキリではなく、本当のことだったのですごく悲しくなりました。
あの優しいほんわかした先生が大好きだったのに!先生がいてこその、三輪田学園なのに!そんな思いがあふれてきます。 (メモリ)


当方も、本当にショックを受けております。
西先生のお話に感動し、このような校長先生のもとで、子供の教育をお願いしたいと思い、 三輪田学園を志願し、ご縁をいただき、3年が経ちました。
折々のお話に大変感動し、涙することもしばしばありました。 判りやすく、お人柄がにじみ出るあたたかいお話の数々。。。
もう、校長先生としてのお話が伺えないというのは、淋しく、とてもとても悲しいです。

素晴らしい教育者でもあり、人格者でもあられる西先生。 三輪田の保護者だけでなく、あらゆる方面の方からの信頼も厚いと伺っております。 そのような校長先生が、教職員の方々のトップに立ち、今の三輪田を創ってこられました。
明るく、質素で、とてもあたたかい学校です。 西先生が今まで大切にしてこられた教育理念を、今後も継承し、在校生、保護者で守っていけたらと思います。 (西先生の大ファン)


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     その昔から三輪田学園が重視して取り入れてきた読書の時間

 私も西校長先生のお人柄に惹かれ、娘を受験させ、ご縁をいただきました。 春から三輪田中学に通うのを楽しみにしている矢先、この掲示板を拝見いたしました。 三輪田学園は西校長先生だけでなく皆さんでつくりあげた校風なのでしょうと思います。 しかし内部を知らない新入生保護者にとって、西校長先生=三輪田中学だっただけに大変ショックをうけております。 (4月から三輪田生)

 本当に残念です。 毎回参加はできなかったのですが、 教育サロンでは、とても有意義なテーマを毎回ご提示くださり、来年度も機会がある限り是非参加しようと楽しみにしておりましたが。
高校、中学と学年の違うお父様お母様の貴重な体験談も伺う事が出来て とても為になりました。(桜茶)


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今回、投稿を読みながら、改めて感慨の時間が流れた。 息子が知り合いになったNYの三輪田卒業生のかたが、「説明会で母親が西先生に惚れ込んでこの学校に決めた」と言われたのと同じ声ばかり・・・。

一方、三輪田学園は、私がいた頃、職場としても本当に心地よい学校だった。半人前の自分が迷惑ばかりかけた気がして恐縮この上ないが、先輩の先生方からは、考え方から立ち居振る舞い、言葉使いまで本当に学ぶこと大であった!ここで今の私の素地が造られたと思っている。当時の私(たち)はまだ永年の職業意識が薄く、結婚や出産で学年途中でもさっさと辞めてしまった。 それでも「今度また教職につく日がくるなら、絶対三輪田学園で働きたい!」などとムシのいいことを言いながら。

卒業生には、(私の知る限りでは)、古くはあの「坂の上の雲」の秋山好古の二人のお嬢さん達、三島由紀夫のお母さんの倭文重(しずえ)さん、橋本龍太郎元首相のお母さん、日本画家で富山出身の郷倉和子さん、・・などなど。(本人より、だれだれの母とか妻っていうのは・・笑) 最近では野田首相の奥さんとか。

結局、西先生は自身の教育理念のもと、教育者としての道を全うし、学校や生徒のために全力を尽くしてこられた。三輪田の卒業生や保護者の方々からの敬慕の言葉を聞くと、私までほんとうに嬉しく暖かい気持ちになる。西先生には個人的にもとても思い出が深いから。

最近(平成23年1月)の西先生の講演会: 『私の私学教育論〜校長職16年の反省から〜』 ぜひ見てください。
 http://ka-kyouiku.typepad.jp/110219_12th_jouhoukoukannkai.pdf




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とやま弁でいかんまいけ!

2011/11/06 17:14
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        先週郵便局へ行ったらこんなクリアファイルを売っていた

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               つまり『富山弁集』がファイルの表と裏に

このファイルは、富山県の形をした絵はがき4枚とセットで1000円。 
「あのー、絵はがきのほうは要らないんです。ファイルだけ売っていませんか?」
「皆さん、そう言われますが・・すみません、セットながやちゃ

と、富山弁でこうなりそうだが、若い女性の郵便局員が、標準語から急にここだけ富山弁になることはないだろう。

私自身はふざけた時意外はなかなか使う機会がないが(使えない)、富山に住んで30年近くなると大体使い方もわかってくる。前からみると少しは使い方の知識と語彙が増えた。


 次の富山弁で会話例をできるだけ沢山作りなさい――なんて問題があると面白いじゃないですか。
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だやい・・・これは子どもも年よりも、私だって使ってるかもしれない実にpopular な方言。
  「こんなに散らかして〜! 早く片付けられ」
  「後でやるちゃ」
  「後で、なんて言っとらんとさっさとやられま」
  「だってー、だやいもん。今日は5時間も宿題しとったんぞ〜。だやいからもう寝るわ〜」

 やっとかっと・・・・
  「貯金してるんだって? いくら貯まったの?」
  「3万3千500円。 5年かかってやっとかっとここまで貯めたがや。まだ家は建たらんちゃ」

 そいが・・・  
  「ああ、日本は民主主義政治でよかったねぇ」
  「そいが
  「軍部独裁政治は怖いね。自由にものが言えんね」
  「そいが、そいが
 
こわくさい・・・
  「お宅の息子さん、リッパになられて、見間違えてしまいましたよ。頼もしいですね。」
  「な〜ん、こわくさいヤツで、親父の私にイッチョマエに意見なんぞするがですよ」 


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 きのどくな・・・ 私にとっては究極の人騒がせな富山弁。
   東京に住んでいた私(たち)だが、夫の故郷富山市で結婚式を挙げることになっていた。式の前日富山に帰り、今は亡き姑に連れられ、となりの家に挨拶に行った。玄関に出て来られたおばさんとおばあさんに、粗品の信州の菓子折りを差し出すと、二人は即座に「気の毒な」「まあ・・気の毒な」「ほんとに気の毒な・・」を連発したのだ。
私はびっくり仰天。 「結婚の直前に言われるなんて・・私のどこが気の毒で哀れなんだろう・・」「ああ、私の結婚には、何か哀れむべき不幸な事実があるらしい・・」「もっとしっかり調べるべきだった・・・」  と、落ち込んで家に戻っが夫にも言えず不安は続いた・・。


このことは前にも書いたけど。
Casablanca in the Valley http://marilyn-m.at.webry.info/200910/article_3.html


 富山県で教壇に立ってから、そして子どもの授業参観で気がついたことだが、小学校、中学校、高校、と先生達はみごとに富山弁を使って授業をしていた。それは、生徒との間の距離を縮め、親近感をもたらすためだとも思うし、そんな意識や意図もなく、自然な行為だったのかもしれない。先生方は、緊張している時は標準語で、リラックスすればするほど言葉は富山弁になるようだ。

二十余年前、初めて富山県の高校で教壇に立った時、女子生徒たちとお喋りしていると、彼女たちが私に「先生は東京のお嬢様みたい」とドキッとしつつ吹き出しそうなことを言った。「え〜〜、どうしてそんなふうに思うの?若く見えるから〜?!(ずーずーしい)」と聞くと、「ううん、年ってことじゃなくて。 だって言葉が東京みたいで、富山弁じゃないもん」という答えだった。
その後、別の高校では、自由主義的男子高校生が「先生って何か、キモチワルイ喋り方だぜー」と言った。富山弁を聞きつけていると(つまり多くの先生は富山弁)富山弁でない言葉が教壇から聞こえてくると違和感を覚えるらしい・・。

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その方言を取り上げて味わい、面白がるのは誰だろう。 方言がカラダの一部になっているネイティブ・・・ではなく、またその方言を聞いたこともない他県人は関心が湧かないだろう、自分のことを考えてもわかる。 その方言(富山弁)を後から知って日々接してきた新住民の私たちなのだ。 今、私には富山弁が日常に聞こえる!興味深い! 英語を話すみたいに富山弁イディオムを使ってネイティブのように話してみたい・・・な〜んて思っている。こんなクリアファイルに飛びついて、コピーして息子達に送って喜ばせようとする私は・・
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                                 かしら?
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ニューヨークからのお客さま

2011/11/01 13:16
ニューヨーク富山県人会長の土肥信一さんご夫妻が10月末、富山、金沢へお見えになった。私も昨秋NYではメトロポリタン美術館を案内していただいたので、再会が楽しみだった。

土肥さんは高岡市のご出身、ニューヨークに行かれて50年メトロポリタン美術館で学芸員として40年間お勤め、77歳の今も、絵画、工芸品などの世界中の美術品の保存修復のお仕事には美術館より依頼が絶えないそうである。

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昨年9月 メトロポリタン美術館で初対面の土肥さんご夫妻 特にエジプト・メソポタミア芸術が専門とか

この春に元メトロポリタン美術館学芸員として日本政府から旭日双光章という叙勲をされて、9月6日にニューヨーク総領事公邸での叙勲伝達式には「社会勉強」として?息子も招いてくださった。

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         土肥さんが受賞された旭日双光章の勲章だそうです
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受賞され笑顔の土肥さん 右は廣木駐米大使 左はモンテベッロ・メトロポリタン美術館前館長
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                土肥さんご夫妻
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もちろん英語で挨拶スピーチ(70人ほどの招待客のうち日本人は30人位とか)
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受賞パーティで土肥さんのご子息Kさん(ドクター)と、そのお嬢さん(お孫さん)と


 [MetroNAVI ニューヨーク]の記事より
春の叙勲で旭日双光章を受章した元メトロポリタン美術館学芸部保存修復課学芸員(修復師)の土肥信一氏に対する叙勲伝達式が6日、ニューヨーク総領事公邸で行われた。
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土肥氏は、日本美術・日本文化の普及に大きく貢献しただけでなく、各国の美術作品の修復に協力してきた。ニューヨークタイムズ紙は同氏を「美術の医師」「美術界の外交官」などと評している。またニューヨーク富山県人会を立ち上げ、長年にわたり会長を務めるなど米国における日本人・日系人コミュニティーを支えている。

廣木重之大使は土肥さんを「日米の絆を結んだ生きたシンボルです。その功績を称えます」と挨拶し、勲章を伝達した。

土肥さんは「40年、日本美術を支える黒子に徹してきて、このような勲章をいただけるのは大変に光栄」と喜びを語った。フィリップ・デ・モンテベッロ・メトロポリタン美術館前館長が祝辞を述べた。


その他にも 日米交流150周年記念外務大臣表彰 など、日米交流の貢献者として表彰されているが、土肥さんにとってとても印象深い思い出は、9・11テロの時、初めて美術品修復以外の仕事を請け負ったこと。それは、事件が起きた直後、NYの消防隊員が黒板に自分の名前を書いて出動したあと、彼ら8人はテロの犠牲となり帰らぬ人となった。土肥さんはその時の犠牲者自ら書いた走り書き署名の黒板を復元しメモリアルにした。 
今回の叙勲と、その9・11黒板エピソードを伝えた テレビJapan (ニューヨーク放送のTV)のニュース映像をご覧下さい。(2011年9月17日放送分を見てください)
http://www.tvjapan.net/tvjapan_club/video.html 

そんなエピソードでもわかるように、NYでの土肥さんは「ノーと言わない人」という伝説的な人物で、皆から尊敬され慕われていると、net のいろいろなサイトで書かれていた。本当に親切で律儀なかた、NYに長年住みながらも、メールでの文章なども伝統的な古き良き日本人の典型のようなかただ。私も、NYの息子も何度かご親切な心に接し感動恐縮しきりである。
NYのメトロポリタン美術館も10年定年を延長されて75歳でリタイアした時も、美術館でのほんの内輪のパーティのつもりが、招待しない館員たちまで沢山集まって来て会場に入りきれなかったとか・・。 
私が初めてのNYでメトロポリタン美術館の虜になったのは美術館そのものの素晴らしさもあるが、「土肥さん」ご夫妻との繋がりに負うところ大である。

 土肥さんのことが書かれたサイト
北国新聞HP http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20081217102.htm
在ニューヨーク日本国総領事館HP http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/jp/h/250.html


 さて10月26日に富山へいらして、土肥さんは母校で講演をしたり、県知事を訪問したり、クラス会に出席したり、連日大忙し。私は28日に夫人とランチを。幸い秋晴れの素晴らしい天気だったので、呉羽山や水墨美術館を見学した、というより、お喋りが止まることがなかった。
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              立山連峰も見えて爽やかな秋晴れ 呉羽山展望台
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          水墨美術館では元館長のY先生が案内してくださって
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       美術館の茶室でお抹茶をいただく
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  はるか前にいらしたことがあるという美術館の庭園は秋の陽に輝く

二度目にお会いしただけなのに、控えめな優しい静かな笑顔と同時に、本当に気さくで気取らず正直なかただったので、つられてあれこれ話題は尽きず、「女はいつも耐えてきた」という意見一致に到達したりして、楽しいひと時を過ごした。土肥夫人は金沢のご出身、ご主人が金沢美大の学生さんだった時お知り合いになったとか、貴重な?情報も話して頂いた。

 30日(日)は土肥さんの講演会へ(国際ロータリークラブ金沢地区大会) 石川県立音楽堂コンサートホール
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講演『日米文化交流を支える相互の理解』 で、lecture される土肥さん

[講演内容] 150年の日米文化交流はニューヨークを中心に行われてきた。最初の文化使節団は江戸時代末期のサムライ使節団。その後高峰譲吉博士のアメリカでの活躍、財閥ロックフェラー家の広大な豪邸には日本庭園など世界各地の有名な芸術や文化が取り入れられた話、など、50年間の在住から歴史を省みた興味深く貴重な報告だった。
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       講演は貴重な当時の写真資料を見せながら行われた
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                サムライ姿の使節団


講演が終わって慌しい中、お二人にお会いできてよかった。 今回私の講演会入場に労をとってくださった松井さんご夫妻も土肥夫人にお会いできた。

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               講演後 音楽堂コンサートホール廊下にて       
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小泉八雲の英語紙芝居 「お団子をなくしたおばあさん」

2011/10/27 23:02
先週末は重い腰を上げて、イベントでやる紙芝居「お団子をなくしたおばあさん」絵の手直しにとりかかった。 2年前八雲の作品を6つ紙芝居にしたのが、(そのうちの1つ「若返りの泉」はなんとか私が描いてみた。)他の5つは八雲会の「会員さんのお孫さん」が引き受けてくださった。夏休みとはいえ、5つの紙芝居、計60枚ほどの絵を描かなければならなかったそのかたはどんなに大変だっただろう。つい、色の塗ってないところが多かったり、もうちょっと手を加えたほうが見栄えがする・・という感じだったので、みなから押されて、今度のイベントまでにはやることになった。

というわけで先週金曜から月曜まで4日間、毎日絵筆を持ってひきこもった。 計13枚の絵を塗りなおしたり付け加えたり・・・。
これを描いたかたはもともと絵に関心のあるかたなので、構図がいいな、と思う絵ばかりだったから、初めから自分で考えて描くよりは楽だったかもしれない。ストーリーの加減上、2枚は新しく追加したが、あと2枚ほどできたら描き加えたい・・・。余力あったら、だが。

大の大人が紙芝居に夢中・・・何だか笑ってしまうけど・・。
      
                お団子をなくしたおばあさん
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 昔、昔、 笑うのとお団子を作るのが大好きなおばあさんがいました。 Long long ago there was a funny old woman, who liked to laugh and to make dumplings of rice flour.......

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ある日、お団子を作っているとき、1つがころっと落っこちて穴に転がり落ちてしまいました。 ....one dumping fell onto the floor and rolled into a hole..
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お団子を追いかけておばあさんまで穴に落ちていきました。  The old woman put her hand down the hole , but the hole gave way and she fell in. Down, down, down she fell.

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落ちたところは別世界。 「お団子やーい」おばあさんは坂を駆け下りながらお団子を探し回ります。 This was another country. She ran down the road to look for her dumpling....."Where is my dompling? "

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「おや、お地蔵様、お団子見ませんでしたかの?」 "Oh, Lord Jizo.Did you see my dumpling?".....

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「お団子は見なかったけど・・・大変だ、鬼がやってくる。私の後ろに隠れなさい」 "Don't talk now. Here is Oni coming. Sit down here behind my sleeve and be quiet."

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 笑い好きなおばあさん、思わずテヘヘと笑って鬼に見つかってしまい、お地蔵様の後ろから引っ張り出されてしまいました。 The old woman couldn't help bursting into laughter, and the Oni put out his hairy hand behind Jizo's sleeve..

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舟に乗せられ鬼の家まで連れて行かれました。鬼は「ここで俺達の飯を作るんだ」と大きなしゃもじを手渡しました。 Then the Oni put her in a boat and took her to his house. He said to her, "I want you to cook dinner for us." and gave her a small wooden rice-paddle.

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「ああ、何と不思議なしゃもじだ。お米一粒がまぜるとどんどん増えていく〜」
As she stirred with the paddle, the one grain became two, then four, then eight....

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しばらくはしゃもじのお陰でいっぱいお団子を作って喜んでいたおばあさん、そのうちにやはり自分の家に帰りたくなりました。
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おばあさんは、鬼がみんな出かけたすきを見て、シャモジを抱えて舟に乗り込み川を渡りはじめました。
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逃げるおばあさんを見つけた鬼たち、しかし彼らは泳げません。すると「よし、川の水をみんな飲み干してしまえ!」ごくごくと飲み始め水は見る見る間に川からひいていきました。
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あわてたおばあさんは、しゃもじを振り振り、つぎつぎとおかしなしかめっ面をしてみせました。すると鬼たちはこらえきれずにわっと笑って水を全部吐き出し、川はまたいっぱいになりました。

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おばあさんは舟を漕いで自分の家に逃げ帰りました。それからは魔法のしゃもじでいっぱいお団子を作って売って、じきにお金持ちになりましたとさ。
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小泉八雲の英語紙芝居

2011/10/17 21:14
11月13日(日)の富山八雲会イベントのプログラムの1つにまた英語の紙芝居があります。

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          今年も会員お手製のチラシが出来上がりました

[ イベント内容]11月13日(日) 午前10時より富山大学図書館 & 岩瀬にて
 6階建ての大図書館とラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の蔵書2500冊を収納したヘルン文庫の見学。
 ハーンの作品DVDと紙芝居を見学。
 バスで岩瀬へ移動し、カナル会館でヘルン弁当の昼食。
 旧制富山高校やヘルン文庫のために多額の資産を寄贈した北前船の豪商馬場家を見学。
 同じく岩瀬の旧制富山高校跡地でヘルン文庫もあった馬場記念公園を散策。


このイベントは小中学生向け、というのが主旨なので、紙芝居は富山大学の若い学生にやってもらったほうが子ども達は喜ぶだろうと、大学生動員をお願いしたのだが、希望者が少なくて、それなら八雲会の「ベテラン」でやりましょう!ということになった。 今回の出し物は、小泉八雲作の「稲むらの火」をDVDで見せて、紙芝居は比較的長い「おだんごをなくしたおばあさん」をやることに。

紙芝居は本来一人の語り手が進めるものだけど、今のアニメ・動画時代に慣れている子ども達には、それでは単調だろうと、役割分担してシニアパワーの数で圧倒させるのが八雲会方式。
本番前日の12日に1回練習するだけでは不安である、とディレクターのKさんがこの16日(日)にも練習しようと召集をかけた。今回の参加者は8人、というので、原作にはないができるだけ本文を会話に直して、
おばあさん、 青鬼、 赤鬼、 お地蔵さま、 ナレーター(3人・英語2人&日本語1人)、 絵を差し替える人 ディレクターというにぎやかな紙芝居になった。 (英語センテンスのあとすぐに日本語を言う)

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              最近の八雲会例会の部屋に集まって

この紙芝居 「お団子をなくしたおばあさん」は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)原作のちりめん本シリーズの1つ。笑うこととお団子を作るのが大好きなおばあさんが落っこちたお団子を追いかける途中、オニに連れ去られ、オニの家で不思議なシャモジを与えられオニの“飯炊きばあさん”にさせられてしまった。ある日オニの家を脱出したおばあさんは追いかけるオニを何とかかわしてようやく家に戻った。その後は、持ち帰った、お米が増える魔法のシャモジを使って、たくさんのお団子を作って商売繁盛となりめでたしめでたし、という物語

8月に富山で八雲の作品など琵琶弾き語りをされたNHKラジオ英会話の講師・遠山顕先生は、前にもこのラジオ講座で八雲の作品「むじな」などを取り上げたそうだが、10月号でこの「お団子をなくしたおばあさん」ともう1つ「かけら」という八雲の作品をスペシャルプログラムとして取り上げていらっしゃる。8月、遠山先生の八雲作品・英語日本語弾き語りの公演に感動した私たちは、来年6月の八雲会総会に遠山先生をお招きして八雲の作品を弾き語りしていただけることになった!! そしてこのたび、先生はご親切にも、「お団子・・」の出ている10月号テキストとCDを送ってくださったのだ。
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           遠山先生とNHKラジオ英会話テキスト10月号
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というわけで、練習はまず10月号のCDで、「お団子をなくしたおばあさん」を皆で聞いてみる。紙芝居は削ってかなりアダプトしてあるが、このテキストは原作のまま。お陰さまでおばあさんやオニ、お地蔵様の話し方などとても参考になった。
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         NHKテキスト10月号 「お団子・・」は10月24日25日放送

さあ、1回読み合わせして・・・。 私たちの紙芝居体験も、紙芝居を作った2009年の秋の県民大学祭での上演を初めとしてかなり場を踏んだことになる。 やはり一人のナレーターが全部やるよりは、男の声、女の声が入るととても盛り上がって素晴らしい! 自画自賛になるが、今回も、なんとみんな演技力があるんだろう!!と改めて感心してしまった。一番若い平井さんのお婆さんもいいし、ベテランKino先生は青鬼の役、英語もセリフもプロ級?! また今度紙芝居は初めて参加のMaki先生はお地蔵様の役だが、こちらも英語の声色ばっちりですごい〜〜! というわけで、もしかしたら40人の定員に満たない参加者で紙芝居俳優の数のほうが多くなる最悪状況もなきにしもあらず・・のイベントで、ここまで楽しくがんばれたならいいじゃない〜〜という気持ち。

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2回読み合わせしたあとは立ち稽古 場面とセリフがぴったりしなかったり
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         討論や変更もしながら次第に完成に近づきます
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前半ナレーターのDさん(英語)とYさん(日本語) 「う〜ん、これでいってみようかな」

青少年に八雲の存在・作品の魅力を知ってもらうために、と2年前に6つの八雲作品を紙芝居に作ったが、青少年に伝わったかその手ごたえは??だが、会員は八雲への愛をますます深めています・・・!? 大勢来てくれるといいな〜〜
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異国からの wedding 通信

2011/10/06 22:35
facebook に加入して1年近く経つかもしれないけど、いまだその使い方が65%くらいしかわからない。前にも書いたが、わかることは「友達」ネットを繋いだ人とはその人の発する情報や写真などを共有できるし、「友達」の「友達」まで繋がることができる・・・ことを知った。そんなfacebook のメリットの中で、facebookがなければ出来なかったことがある。音信普通になった友や知人と、コンタクトをとれる可能性が生まれたことだ。日本はともかくとして、世界に散らばった人と、今までだったらどうして繋がることができただろう。

facebook で、私が喜んで楽しんでいるのは、日本を去り、今はどこにいるかわからない昔のつながり(生徒)と自由に会話(文字だけど)ができること。アユニさんとドリスさんはそんな人たちだ。彼女達は2006年の4月、高専の3年生に編入した。たいていはその前に半年か1年、東京の日本語学校で、大体の生徒は人生初めて日本語を学び、読み書きがある程度できるようになって、この富山の国立高専へやって来る(もちろん各都道府県にも)。そんな留学生は、1学年に4〜6人、つまり各クラスに1〜2人いて、学校に隣接した寮に住んでいる。多分、彼らは国費留学生なのだろう、とても優秀で、英語の答案を見ても、漢字、カタカナ、平仮名を使い分けて、名前をみるまで留学生とは気がつかない。英文を日本語に訳す時など日本人の日本語よりみごとだ! 英語はもちろんぺらぺら。だから日本を去るとき、留学生は母国語と英語、そして日本語の少なくとも3ヶ国語を話せることになる。留学生の男女比は男子のほうが1対3くらいで多いかも知れない。

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  2008年2月教室で マレーシアのアユニさんとケニアのドリスさん

でも、3〜5年生が終わる(卒業)と、彼らは他の高専生と同様、希望する日本の国立大学の3年生に編入する。2年間の大学生活を終えると、母国へ帰って行く。 日本には計5年間も暮らしたことになる。私は3年生、4年生の彼女達のクラスの英語の1つの教科を担当し、5年生の時は廊下ですれ違いにちょっと話すくらいだった。 今年3月、彼女達は新潟と東京の大学を終え、アユニさんはマレーシアへ、ドリスさんはケニアへ戻ったということをfacebookの名前検索で見つけてコンタクトがとれ、消息を知った。

時々、彼女達は近況や写真をFB上に出しているが、先週、ドリスさんが友人の結婚式での写真をアップし、また同じ頃、アユニさんも親戚の結婚式の写真をアップした。 異国の結婚式の様子が珍しく、また花嫁・花婿さんの素敵な写真に見とれてついいろいろ質問もしてしてしまった。そして二人とも、自国文化紹介のために、これらの写真を使わせてくれるとのこと、thank you very much.

 Kenya(ナイロビ) のドリスさんのお友達の結婚式 
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          真ん中はお友達(花嫁) 両側はそのご両親 
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         結婚式に参列したドリスさん(右端) ステキ!
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                 花婿さんは軍人さん
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            目を見張る緊張感・・
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     でもこんな楽しそうな・・・ダンスをしているのだそうです
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        心のこもった素晴らしい祝宴が待っています
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    これから美味しいご馳走が? ケニアのお料理ってどんなのかしら


 Malaysia のアユニさんのいとこの結婚式 
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        緑の箱は“引き出物” 彼女達はお客さんへ渡す役目
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           お客さんを迎えている花嫁のお父さん
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             お客さんもたくさん集まって来ました
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       南国の太陽の下で陽気で華やかな結婚式ですね
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 熱帯植物がエキゾチック  オートバイが現代風 カップルはこれから式場へ
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               祝宴 美味しそうですね・・・

アユニさんに聞きました。「グリーンはマレーシアではおめでたい色なのですか? 例えば日本の紫のように。 結婚式などの慶事にはその色の服を着たり・・?」 「いいえ、花嫁や花婿が決めた色です。私たちの結婚式はグリーンでいきましょう、と言われたのでグリーン系で統一しました。色はそれぞれの結婚式で自由です」

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           アユニさんの妹さんもグリーンの衣装で
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     これは花嫁から花婿へのプレゼント その逆も飾られます
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  トロピカルな果物やみんなからのプレゼントもたくさん飾られて

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           今日は緑の衣装で盛装したアユニさん
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        左から叔父さん(花嫁のお父さん)アユニさん、妹、叔母さん、妹
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            彼女はなかなか活発でおちゃめなお嬢さんです


所変われば結婚式も様々です。でもそれぞれに現代的に変化もしてきているのでしょう・・。言えることは古今東西、花嫁さんは本当に美しい・・・。

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三山展もう1度 ― 今日は東山魁夷を

2011/10/02 21:02
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           東山魁夷の何点かを入れ替える

9月27日から、富山県立近代美術館の三山展(東山魁夷・杉山寧・高山辰雄)がいくつか展示を入れ替えたという新聞報道を見て、土曜日、一人の時間になったとき、ふと美術館に足を向けてしまった。
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           富山県立近代美術館  秋晴れの土曜日
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後期展になって、もう行かないかも、と思っていたけど血が騒いで、やっぱり駆けつけた・・・。車で5分というのもいいのか、悪いのか。あの魁夷の緑と白い馬の『緑響く』(1972)が、フランス、パリの公園を取材したという『静唱』(1981)に替わったというので、それがメインとして人気らしい。
いつもはあまり解説を聞いたこともないが、この日は2時から行われるという学芸員のかたの話も聞こう思った。土曜日のせいかとてもにぎわって、駐車場も満杯。

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『静唱』の前で。10/2の新聞に出た写真・・私の後姿が写ってしまった(笑)

確かに解説を聞くと、鑑賞に深みと味わいが増すのは確か・・。そんな見方もあったのか・・・なんて。一番大事なのは直感的にその絵が好きか嫌いか、であるけれど、それだけでは大切なものを見落とすし、世界が一方的にしか見れないような・・。今日は素直に耳を傾けた。
北日本新聞記事によると・・
この日は、同館の丸山多美子主任学芸員が解説を行い、東山氏の集大成として同作品を紹介。「長年手掛けた鏡像構図の中に、水墨のような深みと青色の美しさが同時に味わえる。作品に包み込まれるような不思議な感覚」と話した。背景に描かれたポプラ並木が中心に向かって続く描写が、絵に引き込まれる理由の一つという。

今日は、その他の絵はさ〜っと見て、Museum shop で、いくつかある書籍から、お気に入りを見つけたので買った。
前に水墨美術館で、同じシリーズで「上村松園」を買ってとてもよかったから。残念ながら杉山寧はこのシリーズにはなかった。概して絵はがきも書籍もほとんど東山魁夷のものばかり。

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      『もっと知りたい 東山魁夷 生涯と作品』(東京美術)

中はこんな内容。学習者向けに時代を追って、とても親切に解説してある。
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  今は亡き、日本の文化を創った方達 井上靖・川端康成・東山魁夷
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 後期に展示された、京都の民家を描いた『年暮る』(1968)も好きな絵

東山魁夷といえば、皇居の新宮殿の巨大な壁画(1968)が有名。国民の期待を背負って、天皇と日本の歴史・文化を象徴した、世界が注目する絵を描くという偉大な仕事を成し遂げた人なのだと、改めて凄さを振り返る。
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後期展示は東山魁夷のいい絵に出会えたこと、いい本を手に入れたことが大きな収穫だった。
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大岩山日石寺へ

2011/09/28 23:16
秋晴れの昼、Y先生がMさんと私に、「だんごやで談合しながらソーメンを食べましょう」というわけわからぬお誘いをしてくださったので3週間前から楽しみに。

つまり、富山県中新川郡上市町にある大岩山日石寺(いろんな呼び方があるような)へ案内してくださった。私にとっては30年以上前まだ大阪に住んでいる時の夏休み、今は亡き義母が1度連れて来てくれたのと(義母はその頃上市中央小学校の教頭先生だった)、次は今から25年前の夏に家族と親戚で来た時以来だった。

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           30年前 本堂のこの建物だけ覚えている

実は、この日石寺とはなにものなのか、その昔も今も何もわかっていなかったのだ。HPなどで調べると

大岩山日石寺は真言密宗の大本山として知られ、行基菩薩が大岩川の岩に不動明王を刻んだことが起源と伝えられています。(8世紀)
高さ 3.46mの本尊不動明王像のほか四体が凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出され、中部地方の最高傑作として高い評価を受けており国指定重要文化財となっています。


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御堂の奥には岩に彫られた有名な不動明王が祀られている(重要文化財)
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        暗い中で蝋燭の灯りに照らされて神秘的な雰囲気
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 Mさんも細い板に願いを書いています 私も家族と友の健康を祈って
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        周りは寺院に連なるいくつもの素敵な建物が
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            滝の手前に仏像が整列
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 あ〜、いいな・・・心が和みます 仏像が今の私にはとても優しい癒し

そして「滝」に出た。六本滝といって6つの蛇口から水が落ちる。滝に打たれる荒行で「六根」清める真冬の行事が有名だ。
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       そうそう、25年前のこんな写真が出てきました(笑)
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  映画『剱岳 点の記』でもここで撮ったこんなシーンがありました

滝にしばし見とれたあと、なかなか風情ある付近をぐるりと散策する。
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                絵馬もたくさん
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            ん? 変わった小さな建物 

そろそろ1時をまわってお腹が空いて、ソーメンを求める大食欲が襲ってきた。そのソーメンはというとこの日石寺の周りにある数件の昔からの宿で頂くのだ。それらの宿はお寺から石段で大分降りたところに並んでいて、その佇まいもとても惹き付けられる。
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                 宿の一つ 大岩館
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           私たちが行くのはあの「だんごや」さん
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       三階建てのこの建物と窓ガラスが時代を感じさせます
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         さあ、入りましょう ああ、ソーメン早く早く
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         玄関脇には昔ながらの人形や玩具が並んでます
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               さ、いただきましょう
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これが大岩山の憧れソーメン 冷たくて冷たくてなんと美味しかったこと! このあと白玉ぜんざいも頂きました!

冷たいソーメンはあっというまに喉をくぐった。その間ああだ、こうだと何か月分かの大盛りのお喋りをして、Y先生が夏に行ったSweden 旅行のアルバムも見せていただき、心も体もrefresh 。今日の爽やかな初秋の空気と霊魂のオーラを感じるこの地の雰囲気にも確かに癒される思い。
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お暇する前に2階も見せていただく この大正ロマンの窓ガラスがいい!
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       昔から多くのお参りの客の心を休めた宿なのだろう
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            「だんごや」での談合を終えました

大岩山日石寺 http://ooiwasan.com/home.html 

帰りは、立山町を通る時、八雲会を立ち上げた故高成玲子先生が愛した和菓子の「榎屋」を見つけ、ゆかりの大福を買いました。そしてY先生は初めてという「浮田家」にもちょっぴり寄りました。2008年、『剱岳 点の記』のロケで何日私はここへ通ったことか・・。
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             浮田家は江戸時代の豪農の館  

ここにテントがあって香川照之さんや浅野忠信さんとお話したっけ・・・ なんて今はまぼろし?なつかしい思い出。
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           『剱岳 点の記』2年目撮影2008年7月 木村監督と
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物理学会侵入記

2011/09/25 14:11
21日〜24日まで、「日本物理学会」というコワそうな学会が富山大学工学部で開催された・・・。オイのSくんがはるか富山までやって来て21日に発表すると聞いたので、そんな機会は一生に今しかないかも、と思い、部外者が入れるかどうか分からないけど出かけた。北陸はそう大したことはなかったが、長く居座って太平洋側に猛威をふるった台風15号通過の最中だった。

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  小雨降る工学部は本部キャンパスから少し離れたところにある

幸い?今までに行った英語教育や心理学の学会と違って、受け付けも無いし(どこかわからず)、広い建物のどこからでも侵入できそう。しかし、会場の教室もどこにあるか全く見当がつかない。なにしろ、工学部なんて足を踏み入れたことはないのだから。が、工学部の建物までは、今年中国へ帰った王黎さんのご主人が学位取るために勉強していたので、彼女を車でよく送って行ったから、今日は方向音痴の私もお陰でそれが役に立った。建物に入って2,3人の「物理学研究者」に聞くと、みな優しく親切に教えてくれ、案外すぐに辿り着いた。

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       15分前に入るとまだ数人、そしてSくんもいた!
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                プログラム
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            さてさて11時20分 2番目の発表者Sくんの番です
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         うふぁー! そもそもタイトルの意味さえわからない
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私に内容は理解できるはずもないけど、Sくん一生懸命説明してます
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         ますます・・・・私にはわかりません
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この学会に来る前日アメリカ・フロリダの強磁場施設の実験から帰ったばかりとか
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          会場の方々にはうなずけるらしい・・
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          あ〜〜無事発表は終わって質疑応答
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             質問に答えています!

というわけで、物理学会とはどんな発表が行われるかもちょっと見たかったもので。
私の職場のT准教授も会場にT先生とSくんはH大学・大学院の2年先輩と後輩。  「難しいことやっているんですね、ちんぷんかんぷんで私にはちっとも・・」と言うとT先生は、「ははは、マニアックな世界ですから・・」と大らかに笑っていた。ほんとにマニアックだ・・しかし、自分の所属していない世界のやっていることはみな「マニアック」で片付けられそうだが。

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 マニアックな?T先生(左)とSくん(右)  二人とも“募集中”です

さて、学会は4日も続くけど、私はこれでさようなら。Sくんには迷惑だったかもしれないけど、記念の写真を添付で送った。発表の姿なんてなかなか写真で撮ってもらえないはずだから・・。

教室を出た私は、方向音痴なので、自分がどこにいるのか見取り図もないので全くわからない。駐車場もいくつかありそうだし、さまよう見当もつかない。私は何処へ行ったらいいのでしょうと尋ねるわけにもいかないし。
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    泣きたくなっていたところへ現れたのは 神様!!

そう、工学部で知っている人といえば、唯一このひと、王黎さんのいとこのOS君!! 今年1月、中国へ帰る王黎さんを富山空港へ見送ったとき出会って以来だった。さっきからちらっと思い浮かんでいたのだけどばったり出会うとはまさに神の恵み。 彼は4年前に大連の大学を卒業し、富山大学工学部の大学院で研究生活、確かもうドクター課程を終えるはずだ。富山へ来たばかりの頃、彼のことでちょっぴり一肌脱いだことがあった。素直で明るく素敵な(可愛い)中国の青年である。あれからもう4年も経つのだ・・。
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駐車場まで案内してくれて「もう大丈夫よ」と言っても律儀な彼は雨の中に出て見送ってくれた
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    駐車場から車を出して互いに見えなくなるまで彼は佇んでいた 

来年はドクターを取得、富山を去るという彼・・。私を「お母さん」と呼んでいた王黎さんとの思い出が最近時々フラッシュバックしてジンとなっていた私。 王さん、ご主人が勤務する中国の都市でどうしているかな・・。
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    富山大橋を渡るとき、神通川は濁流と共に水位があがって恐かった
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たとへば君

2011/09/20 09:56
この歌を初めて知ったのは10年余りも前だった・

 たとへば君 ガサッと落ち葉すくうやうに私をさらって行ってはくれぬか 
                                      
そのとき2,3冊手にした短歌の本の中に、俵万智さんの『あなたと読む恋の歌百首』(朝日新聞社)というのがあって、いくつかの恋歌を彼女の素晴らしい感覚と言葉で解説していた。その中に取り上げられていた1首が河野裕子さんのこの歌だった。彼女が21歳の時、今のご主人と知り合ったばかりの頃詠んだ歌だとか。

短歌のことは何も知らない私にも、これはとっても印象に残るスゴイ歌だと思って何度も読み返したものだ。(その前に俵万智の「サラダ記念日」や「チョコレート革命」の"斬新な"と言われた歌集は読んでいたが)   こうして今度の本の題名にもなったこの言葉「たとへば君」って、普通どんな文脈で使われるんだろうか、不思議な語句! それ以来、河野裕子さんという名前を心に留めた

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『たとえば君 ― 四十年の恋歌』 (文芸春秋 2011年7月15日刊行)

私にとっては「たとへば君・・」の一首の河野裕子さんであったが、数年前に、河野さんが癌を患い闘病生活を送っておられること、ご主人はじめ息子さん娘さんも歌を詠む歌人一家であることも知った。そして2010年の宮中歌会始めのTV中継を見ていると、選者として列席した河野さんの着物姿があった・・。そのときまでには彼女が短歌の世界では有名なかたであることも知っていたが。
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2010年1月宮中歌会始めの河野裕子さん 隣りはご主人の永田和宏氏

そして同年(去年)8月、新聞で河野さんの訃報を知ってショックを受けた。まだ64歳の若さであった。
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                     「偲ぶ会」

『たとへば君 ―四十年の恋歌』 が刊行されたことを新聞で知ったのは8月始めだった。昨年の死去のニュースのときにも幾つかの歌集に目を留めたのだったが、手一杯の忙しさのため、そのままになっていた。ふと先週、本屋へ立ち寄ったとき、まだ新刊書の中に積まれていたこの本をめくってすぐさま買った。内容は、本の帯にも書いてあるとおり、「歌人夫妻が紡いだ380首とエッセイ」だった。“乳癌で逝った妻 そのすべてを見届けた夫”とも書いてあった。歌人でもあるご主人と彼女の生前のエッセイが、その歌の背景を説明したり語ったりして散りばめてある。半分以上は短歌のページだったこともあるか、それはもうすごい速さで一気に読んでしまった。

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この本は・・・
河野裕子さんと夫の永田和宏さんの短歌集。それも相手への恋と愛の歌・・。と言っても、文字通り恋の歌もあるが、正確に言えば“相手のことについて詠んだ歌”だ。内容はもちろん、河野さんの独特の言葉の選び方、並べ方。そこから生まれるはっとするような言葉の変身。それが彼女の歌のユニークさだ。(俵万智さんが、彼女の歌集を教本のように読んだ、と追悼文でどこかに書いていた。確かに河野さんの歌からの影響が強く感じられる。) また本書で初めて知った永田さんの歌にも大いに惹かれた。

本書では歌とその背景を通して、短歌のために生まれて生きた河野裕子という歌人の人生が語られている。
また、その1歳年下の夫、永田和宏さん(1947生まれ)は理系の学者(京大名誉教授)で今は私大で教えている。学生時代に短歌を通して二人は出会い、結婚し短歌の道を歩いてきた。二人のエッセイと歌を通して感じられる永田さんの大らかな人柄。理系の人なのに、短歌もプロの世界。二人の歌を交互に読む味わいがとてもいい。

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結婚生活の日常の一こまを詠んだ歌はドキッとしたり、ほのぼのと味わい深かったり。 多くの歌からピックアップするのは難しいがアト・ランダムに・・。

  夜ふかく帰り来たりてわれの眼を覗けるこの眼、さびし男は   
 土壇場で論理さらりと脱ぎ捨てて女たのしもほろほろと笑む (永田)
 学生を伴ひ歩みくる顔は若き日のわれが見知らざる顔
 不機嫌の妻の理由のわからねば子と犬と連れて裏口を出づ (永田)

10年前乳癌に冒されてからの闘病生活の壮絶さには息を呑んだ。かなりステージの高い乳癌の手術のあと、2,3年したころ、彼女の精神状態が不安定となり、不眠に悩まされ荒れ狂った日々・・。本人はもとより家族は地獄の日々だったようだ・・・。特に夫は尋常ではない心理状態の彼女に責められ、刃物さえ突きつけられる。「妻がこんなに不安に怯え苦しんでいるのにあなたは私の気持ちがわかってくれない」ということらしい・・・。夫はつとめて冷静に客観風を装っているのに・・・。それが素晴らしい歌作りの資質でもあるが、彼女の神経の鋭さ脆さは痛ましい。

 言って欲しい言葉はわかっているけれど言へば溺れてしまふだろうきみは (永田)
 とげとげともの言う妻よ疲れやすくわれは向日葵の畑に来たり  
 生意気の女の胸を鷲摑む一部始終は娘に見られいつ
 
 このひとは寿命縮めて書きてゐる私はいやなのだ灰いろの目瞼など
 あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて

それにしても・・・河野さんは本当に夫に甘えられるんだなあ・・・と思った。夫である永田さんは妻が責めることができるような、八つ当たりできるような、優しい包容力あるひとなんだなぁ・・と。

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               20年前の家族4人       

そして2008年、亡くなる2年前、恐れていた「癌の転移」が発覚したあと、家族は家での看護を決め、一丸となって支えてきた。 家族への惜しまぬ愛を降り注いできた妻であり母であったが、歌人として家族からも最大の尊敬を受けている裕子さんへの自然な成り行きだった。「家庭で看護することが良かったかどうかわからない。が、少なくとも彼女は病室ではなく“日常”の日々の中で、より多くの歌を遺すことができた」と永田さんは書いている。
壮絶な癌と闘いながら、まさに死の間際まで歌を作った。

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 
これが死の前日、口述筆記で遺された最後の歌となった。

 歌は遺り歌に私は泣くだろういつか来る日のいつかを怖る (永田)
この歌に泣いた私。

この本の表紙の写真は、2008年7月に転移が発覚し、抗がん剤治療が始まる前に、河野さんの黒髪を写真に残すため、家族4人で京都御所に彼女を撮りに行ったときのもの。気乗りしなかった河野さんだが、お気に入りの薄青色の着物を着た彼女を夫と息子と娘三人がそれぞれ三様のカメラを構えて、河野さんを撮った。このときの写真が数枚、河野さんらしい、落ち着いたいい写真が撮れた、ということで、のちに「偲ぶ会」の時の祭壇にも飾ったとか。
 
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「親子四人が同じ思いをもって御所を歩き、てんでにひとりの写真を撮る。悲しくはあるが、いつ思い出してもほのぼのと懐かしい思い出である・・・」と夫の永田さんは本書に書いている。

河野裕子さんは15冊、朝日新聞歌壇選者も勤めた永田和宏さんは11冊の歌集を出している。お二人とも宮中歌会始詠進歌選者で、その歌集は多くの文学賞を受賞。二人のお子さんを含めまさに歌人一家であった。命は消えても、河野さんの歌は永遠に遺り生き続ける。

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日本画の巨匠三山展 ―富山県立近代美術館

2011/09/15 22:01
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                 富山県立近代美術館
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                    美術館玄関にて

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         三山展開館準備に忙しい近代美術館 北日本新聞webunより

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        9月3日(土)〜10月16日(日) 富山県立近代美術館

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             連日のにぎわい  webunより
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             学芸員の解説に耳を傾け理解を深める
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三山展・・三山とは、東山魁夷、杉山寧、高山辰雄で、戦後、日展を舞台に活躍し、日本画の新しい表現を切り開いたという三人。富山県立近代美術館開館30周年記念展だそうだ。美術館で配布されている子ども向けブックレットがとてもわかりやすく3人の特徴を説明している。
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杉山寧・・心の中に浮かんだカタチを絵にしようとした人です。絵の中で永遠の時間が流れているような外国などの風景や人物を描きました。
東山魁夷・・風景と静かに対話しながら自然を描きました。季節の変化に自分の気持ちを重ねて、“心の風景”を描きました。
高山辰雄・・生きている人間の姿にじっくりと目を向けました。悩む人の姿や家族の姿、自分自身などを独特なタッチで描きました。



今回、私の愛好画は断然、杉山寧だった。 museum shop で買ったのは珍しく1枚だけ、この絵はがきのみ。
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            杉山寧 「水」 1965年(昭和40年)

この地中海の深いブルーと古代の彫像のようなエジプト人女性の神秘的な表情・・。 同じブルーを背景にした「窮」は、エジプトのスフィンクスを正面から捉えて、圧倒的な存在感で迫ってくる。
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                 「窮」 1968年(昭和43年)
   
この明るい鮮やかな色のこの絵は展示の中で最も注目されひきつけられるのではないだろうか。イランの少数民族の羊飼いの娘の衣装に惹かれて描いた、ということだった。彼らの変わらぬ生活の営みの中に悠久の時間を感じ、さわやかでのどかな草原の遊牧の光景に少女の険しい表情が自然とともにある厳しさも表していると(図録に)。残念ながら絵はがきは売られてなかった。
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          「ひつ(漢字が出せない)」 1984年(昭和59年)

そしてこの絵もいい。岩と同化しているような・・・。
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              「饗」 1970年(昭和45年)
私はいつからかエジプト系が好きだったんだ・・。
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         ミイラ木棺(第19王朝) 1967年(昭和42年)

以上は杉山寧(やすし) 長女は三島由紀夫夫人の瑤子さん(みな故人)ということで、絵ではなく私の頭に認知されていた。
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          1909年(明治42年)〜1993年(平成5年)享年84歳。   

そして東山魁夷はあまりにも有名。その絵はほとんど脳裏に刻まれている。10年前に書店で見つけた『信州賛歌』という自伝的エッセイ兼信州を描いた作品集はエッセイもなかなか感動。私の宝である。けれど、今はあの有名な白い馬の絵があまり好きではない。あのfantastic な馬は入れないで欲しいナ・・。そのエッセイに垣間見る素朴で誠実な人柄が好き。
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東山魁夷 1908年(明治41年)〜1999年(平成11年)享年90歳。 

この落ち葉の絵は、ずっと前に近美でやった東山魁夷展で絵はがきとして買ったっけ。希望が湧いてくるような“秋”を感じる。   
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            東山魁夷 「行く秋」 1990年(平成2年)    
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屏風に書かれた大作 「離江暮色」(中国桂林にて) 1978年(昭和53年) 

そして高山辰雄
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高山辰雄 1912年(明治45年)〜2007年(平成19年) 享年95歳 

やはり三人三様の絵の特徴がはっきりわかる。一言で言えば、一番“暗い”絵、かな。暗い絵は嫌いではない。 1つ特に惹き付けられいつまでも魅入った絵がある。 
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       高山辰雄 「食べる」1973年(昭和48年)  

後で見ると図録の解説に「幼い子が食事をしている光景である。つま先を立てながら前のめりになって一心に食べるその姿は、愛らしさよりも切なさを感じさせる・・・」とあった。私はこの大作を目の前にして、この小さな姿が、なぜかうちの次男と重なった。彼は暗くなるまでひたすら外で遊んで帰り、遅くなって叱られながらも、私の作った冷めた食事にとびつき、まさにこんな格好で茶碗を口につけて詰め込んでいた・・・。4200gで生まれた彼は、全くの健康優良児でまるまるがっしり太め、がつがつとご飯をかきこんでいる光景を見ながら、遊びとご飯が彼の全てなのかと産んだ母として何故かとても愛おしく思ったものだ。
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                            webunより

この三山展の三人のかたは、みなほぼ同世代、そして東京美術学校(現東京芸術大学)の出身者だった。そういえば私も好きな平山郁夫(1930年 - 2009年)はもう一世代若いけど、やはり芸大の出身で、同じ山がつく。
それにしても、いつも思うのだが、日本画家ってどうして皆さん長寿なんだろう。この三山の方々も84〜95歳で長命だった。長野県のあの白鳥映雪(1912年〜2007年)も94歳まで、女性画家の小倉遊亀(1895年〜2000年)は105歳!! なぜかしら、と思う。(上村松園は74歳だが息子の、上村松こうは99歳)
9月27日〜10月16日の後半にもう1度観に行くだろうと思う三山展である。
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9・11同時多発テロから10年

2011/09/13 23:11
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      2011年9月11日 NYで10年目の追悼式典が行われた
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マンハッタンのグランド・ゼロで追悼と平和な未来への転換を訴えるオバマ大統領
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    テロの跡地 グランド・ゼロでの追悼式典
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オバマ氏、ブッシュ氏がビル跡地での追悼式典に参列したのは今回が初めてという

2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルのツインタワー北棟に最初の飛行機アメリカン航空11便が突っ込んだのは午前8時46分だという。日本では夜9時46分ということになる。 TVニュースでの映像は世界中の誰もが、それを現実のことと認識するまでにどれほどの時間がかかったことだろう。
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     航空機2機に激突され炎上上するNY世界貿易センタービル

そしてそれから約20分後に第2機目のユナイテッド航空175便が同じ貿易センタービルのツインタワー南棟に突入炎上したとき、もはや過失とか偶然とかの問題ではなく、そこに恐ろしいテロ事件を察知した・・・が、私を含む世界中の大方の人々には、やはり何が何だかわからない悪夢としかいいようのない長い時間が映像と共に経過したのだった。その直後にさらに続く航空機激突の現実が追いかけてくると、もはや遠い他国のことではなかった。その悪夢は9時38分にアメリカン航空77便がアメリカ国防総省に撃墜したところで頂点に達した。

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その当時世界情勢にいささか疎い我が家でさえも、当然、この事件の衝撃は大きかったが、何と、主人の「甥」のH君が、ちょうど休暇をとって一人でニューヨークに旅行をしている時だった。彼はその9月11日、1週間の旅行を終えて、日本に帰るべく、J・F・ケネディ国際空港へ向かった。

空港へ着くとなんと空港が閉鎖されていたのだったが、まだその理由がわからなかった。やがて全容がわかってくると、彼はその事実に震撼とした。前日の10日に、その世界貿易センターに観光に行き、何階かのベンチに横たわって昼寝をしたのだった。このテロが昨日だったら、自分の命はビルと共に炎上崩壊していただろう・・・と。 しかし、命は助かったもののそれからも大変で、NYの飛行機の発着はストップし、結局彼は10日ほど日本に帰って来れなかったし、2日ほど安否がわからなかった家族の不安は極地に達したことだろう。
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あれから10年。結局、このアメリカ同時多発テロは、ハイジャックされて激突に使われた4つの飛行機の乗客全員の犠牲、貿易センタービルで働く人々など、約3000人の犠牲者(19人のテロリストを含む)と6500人の負傷者を出した。そしてその犯行の首謀者とされた国際的テロ組織アルカイーダの指導者オサマ・ビン・ラディンを10年目の今年、アメリカはついに所在を突き止め殺害した。強国アメリカへの非難、嫌悪、宗教戦争、またアメリカの自作自演説まで、様々な事件や思想や運動が起こり歴史が新たに塗り替えられてきた。

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けれど、10年目の今日、私は心の底から叫んでしまう。どんな理由があろうと、テロは許されない、と。アメリカ政府は、その歴史的な10年目に合わせて、NYまたはワシントンを狙ったテロ計画情報を入手、NY市警は対テロ特殊訓練を積んだ部隊を含む数千人を動員し厳戒体制をしいて警備したとか。「記念式典にブッシュさんとオバマさんが来るから今ニューヨークは厳戒体制だ。恐いね」と、去年からNYで暮らす息子が言っていた。

そう、今までの私と今はちょっと違う。去年初めてNYの街を歩き、ゆったりとのどかなNY,マンハッタンが大好きになった。そこに住む肉親の命を脅かすテロに対して、現実的な恐怖と怒りが心の底から湧き上がる。どんな理由も許されない。罪もない人間の命を奪うテロは断じて許されない、と。 「何が起こっても、アメリカに行った以上覚悟しておかなければ」と自分に言い聞かせていたけど、何とか9月11日だけは無事過ぎた。厳戒体制万歳。感謝。

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     平和への祈り  記念公園となるセンタービル跡地

とにかく、オバマ大統領がビルの跡地やワシントンDCで訴えたように、「戦争の10年」と決別し、「平和な未来」への転換が現実のものになるよう祈るばかり。アメリカには大きな課題と責任がある。でもアメリカだけではない。
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おわら風の盆

2011/09/04 23:20
「風の盆」という言葉からは、哀愁とはかなさ、そして何故か悲劇の響きが奏でられる。富山市郊外の八尾は坂の町、夏が終わり秋風が吹き始めるころ、今年も「風の盆」がやってきた。 (写真は朝日新聞・北日本新聞・岩手日報・他より)

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          毎年9月1日〜3日まで
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何故か毎年風の盆が来ると落ち着かない。行こうか行くまいか、揺れ動くから・・。結局行かないで今年も風の盆は去った。初めて「おわら風の盆」を観に八尾の街まで行ったのは10年前、2001年の9月1日だった。それまで、踊りそのものは宴会の舞台で本ものを、あるいはTVや新聞、雑誌で見てきただけ。(30年近く前、富山へ住むまでは「おわら」ってなーに?と、何のことやら知らなかった。)
 
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                  町流し          
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          八尾の11の町内によって着物が異なる
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           3日間は子ども達もおわらにひたる

3日間の風の盆の期間、20〜30万人もの見物客が訪れる。毎年、有名人や政治家のだれそれも来たとか、報じられているが、ここまで全国的に有名になったのは、作家・高橋治のあの悲恋の小説『風の盆恋歌』が1985年に出版され、テレビドラマや舞台で演じられて大ブームとなり、さらに石川さゆりが「風の盆恋歌」を1989年に歌ってかさらにブレークしたという。風の盆を舞台にしたドラマはNHKでも2つあったと思うが、どれも哀しい悲恋と悲劇だった。

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私がその踊りの美しさを知ったのは、今から20年も前、実家の長野県へ帰り、善光寺へ行ったときのことだった。夕方の人気のない境内に突然、「おわら」が現れたのだ。「富山県の八尾から“おわら踊り”踊りを奉納に来られました」というアナウンス、本殿には正装をした善光寺の僧侶の方々10人ほどが並び、境内のその前で男女4人が胡弓や歌に合わせて踊った。 忘れもしない。厳かな境内の夕暮れの中で、その踊りは思わず息を止めるほど美しかったのだ・・。彼らの白い手手先の動きの美しさはこの世で初めて見るものだった。そして男踊りの二人の動きに圧倒された! ある音と音の空間で彼らの動きは一瞬ぴたっと静止するのだ。そのはっとする静止と女性のしなやかな白い手の動きが、私のおわら初体験だったのだ。・・私が住んでいる富山にこんな美しい踊りがあったとは。

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それから10年後、今からちょうど10年前、夏休みの集中講義に奈良の大学からいらしていたF先生を案内して、N先生ともう一人の院生と4人で9月1日から3日間ある「おわら風の盆」初日を見に行くこととなった。その時が、私の「風の盆 at 八尾」の初体験だったが、その時、F先生は勿論、前年東京から富山大学に来られたN先生にとっても、そして私ともう一人の院生の女の子にとっても実は全員おわらの八尾は初めてだった。

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            この静かな坂の町が・・・・

越中八尾駅に降り立って踊りの町まで歩いた20分ほどの間、肌に受けた初秋の風の冷ややかさを今でも忘れられない。あの暑い夏から、もう秋になったのだ、という感慨・・・浪人していた息子が1ヶ月帰省して勉強し、前々日再び大阪の予備校へ帰って行ったあとの寂しさと空虚さが甦ったり・・・。

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その時、おわら風の盆なんて何にも知らなかったN先生には、高橋治の文庫本『風の盆恋歌』を1,2週間前に「これを事前に読んでおくと踊りが10倍楽しめます」と献上した。忙しいかただったので読まれるとは思ってなかったが、大阪への講演の電車の中で読んだとのこと・・・それがなかなか、打ちのめされるほど?感動されたようだった。後々に、ご自分の大学時代の忘れがたい経験を思い出だしたからだとわかったが。それで実はN教授、こののち1年間ほど、八尾に古い空いた民家を買いたい!という夢に浮かされていらした・・・。(小説と同じ体験をしたいの?)

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          N先生を虜にしたのはこの白い手だった
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       八尾の女性はみなこんな美しい手をしているのだろうか・・

ほんとうに、それは魔法の手だと思った。編み笠が顔を隠しているところがまた神秘的。そのしなやかな白い手は、N先生でなくても、(この私だって)魅了されて止まない。その10年前、善光寺で見た白いつややかな舞いの手。ああ、私もあんなふうに踊れたらいいなぁ・・と仮定法過去でつぶやいてみる。 I wish I could dance like that.
それにしても、おわらの踊りは、八尾のひんやりした秋風を受けて観ることこそ本道なのだ・・・八尾へ行かなければだめ。その哀愁を集を帯びた歌と胡弓の音色も夜の町に響くときこそ味わいがある。

観光客が帰った夜半から、静かになった町にあちらこちらからそれぞれの町の踊り手たちが出てきて、今度は自分達のために踊りを楽しむとか。ああ、1度明け方まで踊りに付き合っていたいなあ・・。

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全て終わった4日の早朝、越中八尾駅のホームでは踊り手たちが観光客を踊りながら見送るという・・・その光景を毎年新聞、TVニュースで知るとき、何故か思わず涙が出そうになる・・・。いつか最終日のこの夜明けの風情を味わってみたい。

 北日本新聞(9/5朝刊)より
 「来年も風の盆に」 早朝の見送りおわら
富山市八尾町中心部で開かれた「おわら風の盆」を訪れ、始発列車で帰途に就く観光客におわら踊りを披露する「見送りおわら」が4日早朝、八尾町福島のJR越中八尾駅で行われ、観光客が風の盆の余韻に浸った。
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            始発列車の「見送りおわら」        
 
 午前5時52分の富山行き始発列車の出発に合わせ、法被、浴衣姿の福島地区の踊り手約20人がホームに整列。列車に乗り込んだ観光客に向かって勇壮な男踊り、優雅な女踊りを繰り広げた。同6時16分発の猪谷行き始発列車の乗客にも披露した。

 乗客たちは顔をほころばせながら見入り、列車が動き出すと「ありがとう」「また来ますね」などと手を振っていた。初めておわらを見に来た東京都江東区、主婦、北村とも子さん(64)は「胡弓(こきゅう)のもの悲しい音色に感動した。来年もまた訪れたい」と話した。


動画ニュースはこちら(公開は2週間)
http://webun.jp/movie/news/2095

他にも映像が見られます
BBT スーパーニュース「おわら風の盆」
http://news.bbt.co.jp/topics_detail.phtml?Record_ID=022c662f3ae3ae3c1f4ad377227c0c99&autoplay=allplay

KNB リアルタイム「おわら風の盆始まる」
http://www2.knb.ne.jp/news/asp/XVideoView_w.asp?Order=20110901_29416_w&HeadLine=20110901_29416.txt
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夏の終わり その2・・・むっちゃん流

2011/08/28 00:21
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いとこのむっちゃんです(昨年3月 Los Angeles でマリリン・モンローさんと?!)

先日信州の実家へ帰省した折、88歳の母を連れて、母の妹(つまり私の叔母)が嫁いだ佐久市の家を訪ねた。

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           私はこの家の昔ながらの佇まいが好き

先祖は木曽義仲の重臣だったという木曽家は、昔は地主で大金持ちだったらしい。 戦前のままの門と母屋と土蔵と広い屋敷が、前は単に古いまま存在していただけだが、13年前に、美大を出てロサンジェルスで商業デザイナーの勉強&仕事をしていた従兄弟のむっちゃんが、10年余り暮らしたロスを去り長男がために妻と娘2人と共に田舎へ戻されて、生家の離れに住むことになると、彼は古い住まいを自分の手で自分流に造り変えてきた

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                家の周りの田んぼを池にして
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               広葉樹を植えてベンチも置き
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                植木もみんな自分で刈り込む
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       土蔵の横の生垣を回っていくとむっちゃんの家の玄関へ
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         まあ、これは洋風の普通の玄関だけど
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        今日は玄関に入らず この土蔵へおいで、と??

この家は全盛期に造った大きな土蔵が2つあるのだ。この門の脇にある土蔵へ行く・・。

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                  門をくぐって母屋の庭へ

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  「え?この土蔵へ? 何が入っているの?」「まあいいから戸を開けて」 

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重い引き戸を開けると「あらっ!!」 暗い米俵の土蔵ではなくて・・別世界
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              「いらっしゃい!久しぶり」
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   土蔵のイメージが一変するサプライズを見るのが楽しいのね! 
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          明かり、椅子、テーブル、1つ1つにこだわりが
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              この暖炉が雰囲気にマッチ
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 薪も自宅の山の木から自分で割って作る。床のタイルも勿論自分で
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            お茶の入れ方にもこだわりがあるって

この部屋(応接ルームだそうです)は、4年前に奥さんと旅行したフランスの民宿のダイニングルームに感動してそれをモデルに造ったのだとか。私だけが初めてで、もう2年前に完成とか。
しかし、父親である叔父さんをはじめ周囲はびっくり仰天だったろう。「ムムム・・・」と我慢した叔父さんの気持ちはいかに。

ただこれだけの部屋だけではユニークだけどそんなに驚くには値しないかもしれないが、凄いのは、ここを彼は職人の手を一切借りず一人で手造りしたことだ! この木目の生き生きした木材の壁や天井、この木が150年以上経っていると信じられようか? 彼は本来土蔵にあるべきものを除いて(昔ほど必要なくなったので)、壁から天井からみな自分で水で洗ったとか。私の好きな、年月を経た木の模様、木の輝きがする!!昔、自分の山の上質の木材をたっぷり使ってあるからこそ、百年も二百年も木は生き続ける。この家の歴史を背負った木材の味わいが素晴らしい。現代のどんなモダンな家もとてもこれには及ばない。

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            ‘土蔵’の昔ながらの階段を上ると
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            豊かな木材を生かした屋根裏部屋の2階
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 2階は部屋が2つあって向こうはデザイナーのむっちゃんの仕事部屋
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           1階の暖炉の煙突が2階にも伸びて暖房に
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   床(1階からは天井)の空気穴はガラス張りにし1階が見える

「すごいね〜〜。どのくらいかかったの?」「1年くらいかな」「去年来たときはむっちゃんいなかったから土蔵がこうなっているの知らなかったわ。いつ?」「もう2年も経つよ」「へ〜〜、いいわね。この木が断然いいし、アンティークの調度にぴったり」

最後においとましようと土蔵を出ると、「その右の部屋も開けてみて!」と叔母が。
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          よいしょと重い戸を開けるとまたマジック
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 なんと、昔、長野県にはどこにもあった「味噌部屋」が洗面所に・・・ 
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天井でくるくる回るクラシック扇風機が風雅でした  開閉の天窓も作って  

この洗面所も材料を買って全て全て自分の手で造ったところがスゴイ!! デザイナーだって作れるとは限らないんだから。

夕風も吹いて、門を出ると、「そっちの畑も見て!」とむっちゃん。

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              あらあら、畑までデザイン・・・?
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              ステキな野菜畑でした〜〜

自分流の美のこだわり・・・。いいな〜〜。田舎だとデザイナーの仕事は実力を存分に発揮する機会は少なくなるだろう。だからいっそう自分のこだわりをどこかに表現したくなると思う。「むっちゃん、これ造っているとき、毎朝起きるのが楽しみだったでしょう!」
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夏の終わり その1・・・比田井天来記念館へ

2011/08/26 10:25
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比田井天来(明治5年〜昭和14年 68歳で没) 写真は天来記念館の展示品

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       左奥の白壁の建物が天来記念館(長野県佐久市望月)

もうすぐ夏休みも終わりに近づき、気持ちも危うくなってきましたが、お盆に帰れなかったので今ごろ里帰り。翌日、郷土の偉人で、「現代書道の父」と呼ばれる比田井天来の記念館へ行ってきました。

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比田井天来記念館(昭和50年開館 文部省が認定した初めての書道専門美術館) 

( 昭和55年夏、皇太子時代の今の天皇皇后両陛下が訪問されました。我が実家にその時の写真が額に入れて飾ってあります・・・

 昨年2010年5月私が訪問したときの天来記念館記事
  http://marilyn-m.at.webry.info/201005/article_3.html   
 比田井天来について http://www.shodo.co.jp/tenrai/tenrai/tenrai01.html        
 比田井天来記念館(佐久市HP)  http://www.city.saku.nagano.jp/cms/html/entry/1673/265.html 

というわけで、今日は記念館の小林一夫館長さんにお会いしました。昨年4月より就任された小林館長さんは、元小学校の校長先生。ご自身も専門は国語で長年書道に親しまれているかた。久々しぶりに書道に造詣の深いかたが館長に就任され、最近少し入館者が少なくなっている比田井天来記念館も、新しい光が差してくれたようです。
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        さっそく案内、ていねいに説明をしてくださいました

館長さんがくださったパンフレットによると、記念館は天来・小琴(天来の妻)展示室門流展示室に分かれています。まず、入ったのは門流展示室。

比田井天来の門流といえば、門下生には、
上田桑鳩、金子鴎亭、桑原翠邦、手島右卿、などの有名な書家がいます。もちろん、記念館にはこれらの書家の作品もいろいろと時期を変えて展示されています。
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  「こちらが金子鴎亭さん。」と写真とともに解説いただきました

金子鴎亭(1906-2001)はこれまでの書の題材とされてきた漢詩・漢文などではなく、日本語の詩文を新たに書の題材とし、また書表現も現代に相応しい表現とすべきと主張しました。この考えは次第に受け入れられるようになり、現在では日展や毎日書道展に「近代詩文書」部門が設置されるなど、書の一分野として定着しています。鴎亭は創玄書道会を設立した書道家です。」

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                金子鴎亭 「牧水の歌」

下の書は、館長さんがコピーで見せて下さった、金子鴎亭の有名な作品です。宮沢賢治の有名な詩ですが、この作品はいくつかの高校の教科書に載っているそうです。
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             金子鴎亭の「雨ニモ負ケズ」

そういえば、金子鴎亭のお弟子さんだったというかたを三人知っています。富山の二人は高校の書道の先生、東京のかたは、今は体調悪くやめられたようですが、習っていた時(日展にもいつも出品)、「比田井天来記念館」を訪れるバスツァーでここを見学したとか。三人は創玄書道会の会員です。

[社団法人創玄書道会は、金子鴎亭先生が昭和初期に提唱された『近代詩文書』の芸術運動に賛同した書作家が集まってできた団体です。現在、書道界の団体としては最大級の会員数をほこります]


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 館長さんが作品コピーを何枚も見せて詳しく説明くださったのは手島右卿
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     手島 右卿(てしま ゆうけい、1901〜 1987)は天来の愛弟子       

今軽井沢現代美術館で書をアートにした男 手島右卿 生誕百十年記念展』が開催されているそうです。

比田井天来を祖として多くの個性的な書道の流れが生まれて現代に至ったわけです。

その他、富山ゆかりの書家では大平山濤(1916〜2007 金子鴎亭の弟子)や、中田大雪(1910〜1998)は、比田井天来の孫弟子にあたり、前回見学に来た時はここにも書が展示してありました。
この私が小学校の時、村の公民館で恐い夜の道を行かされ、泣く泣く?習ってた故上島辰彦先生は比田井天来の愛弟子大森万里(望月出身)のお弟子さんでした。私は天来のマゴマゴ弟子?? そして、10年前富山で2〜3年師事した石川知恵子先生も、創玄会の会員。(ああ、忙しくなって脱落したままの劣弟子の私) なんと石川先生から故郷の偉人天来の凄さを教えていただきました。(それまで故郷出身の書家が全国的に高名な人だとは知らなかった私。)

館長さんは他の門流の書も案内してくれました。
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       「兎亀」 鈴木天城 ・・・まるで絵ですね、これは。

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 「輝」 紙屋鶴峰 ・・・・これは北京オリンピックの時のなでしこチームのイメージを書にしたものとか
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北京オリンピック時のなでしこJapan (今年FIFA女子ワールドカップで優勝)

館長さんはなでしこの写真を手に、視覚的に親しみやすく説明してくださり感激。こうして説明されるとこの「輝」という文字も生きて目に飛び込みます。

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「あちらの「昇」(貞政少登)という書も面白いですね。日が水平線から昇るイメージと、赤ちゃんが立ち上がった姿にも見えます。これから成長していく、というイメージですね」 

とっても豊かな書の時間でした。館長さんの豊富な知識と説明のアイディアに感心しました。少し低迷している天来記念館を盛り上げようといろいろな催しも企画し、日々苦心をされている様子がわかりました。控えめで静かな説明の中に、書への情熱がひしと伝わってきました。

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      「今はこんな映画もできて若者にも書道ブームが・・」

なんと、今年4月から、すぐ傍の県立望月高校に、私の大学時代の英文科のクラスメートの美人お嬢さんが、筑波大学の書道科を卒業して初任校として赴任されました。「小宮山先生は頼もしいかたで、今年望月高校の書道部はたくさんの生徒が書道展に入選されましたよ」と館長さん。 がんばれ、書道小宮山先生!!そして小林館長さん!!

天来の書はまた別の機会に。
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有峰の自然の中で八雲会

2011/08/21 08:33
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            この「八雲立つ樹」を目指して

8月の八雲会例会は、高成先生の存命中の数年前から、「有峰(ありみね)」の自然の中で、自然散策と八雲勉強会を行ってきました。でも私は今年が初めての参加。天候がちょっと危うい1日でしたが、参加者15名無事帰還しました。
私にとって名前だけ知っている有峰とは富山市有峰、ダム湖である有峰湖を中心とした一帯で、富山県が設立した「有峰森林文化村」があります。

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           朝8時半 立山町の「アルペン村」に集合

集まった15人(過去最高人数?)はそこから4台の車に分乗して有峰湖を目指します。

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      30分ほど乗って着いたここで2グループに別れます

4人のかたはこの休憩所で休んだり、辺りを散策。私はあまり自信ないけど、何しろ初めての参加なので「八雲立つ樹」参りをしなければ・・と山登りグループに。

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      まず途中、大多和峠の「天の夕顔」文学碑で記念写真
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   この森林文化村設立にかかわった県庁の中川さん(右端)が案内を

中川さんは八雲会の会員でもあり、昨年の総会ではパネラーの一人でしたが、毎年の有峰合宿ではみんなを誘導されます。 この大多和峠に車を置いて、いよいよ今から岐阜県境に沿って山に登ります。といっても「八雲立つ樹」までのそう急勾配でもない約1時間ほどの山登り。 雨が降りそうな曇り空でしたが、炎天下でなくて良かった・・。

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           ブナ、ナラなどの落葉広葉樹の森林を登る
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            柔らかい落ち葉を踏みしめる心地よさ

日ごろの鍛錬が足りない私は、枝に頭をぶつけたり、途中フーフーときつかったところもありましたが、無事、目的地「八雲立つ樹」に到着、みな歓声をあげました。
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何年か前、「八雲立つ樹」と命名し、八雲会の愛木となりました

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          目的地を制覇しみんな安堵のsmiling
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               思い思いに記念写真

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       中川さんの吹くオカリナが緑の樹々の間を流れます
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中川さん、演奏終わって突然感嘆。 「上品やねー!八雲会ってなんちゅー上品な会ながや〜! はははは。下品なところがマッタクないねー!ははは。」 ・・・彼は楽しいかたです。
そして、富山八雲会を立ち上げ、2年前若くして他界された高成玲子先生も、東京へ戻られた南日前会長もこの樹まで来られたんだね・・という思い出話にみなちょっぴりもの悲しい気持ちになりました。

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      帰りの下り坂 足取りは軽〜い  素晴らしい森林浴です

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      12時半大多和峠に戻りました 「おなかぺこぺこ!」

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 小雨に煙る有峰湖を右に見て  水の底に昔あった集落が沈んでいます
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有峰ダム(Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B3%B0%E3%83%80%E3%83%A0

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             「有峰ハウス」で昼食とべんきょう会

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お昼前に 大村さんがプリントした「大山の歴史と民族」を読みました
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大山とは富山市大山、ここ一帯の地名。明治に日本に来たアーネスト・サトウの『日本旅行記』の中の「第3章 悪絶・険路の針の木峠と有峰伝説」を取り上げた故高成玲子国際大教授(八雲会事務局長)の小論文です。そうこうしているうちに隣りでは食事の準備が行われています。あ、お腹がなってしまいました・・・・。

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       さすが森林村の建物 自然の木材の香りが漂って

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              わ〜〜、美味しい!

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        お昼を食べたらまたまたお勉強・・
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‘囲炉裏’を囲んで今度は八雲の作品を英語と日本語で朗読  今日は「Butterfly 蝶」 いつもの輪読発表は無し
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       自然の木ばかりふんだんに使った有峰ハウスです
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            玄関には素敵な絵と富山の銘酒が

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          最後に向かいのビジターズ ハウスに寄って
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        いろいろ立山や有峰の地形や自然が学べます
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              疲れたけど楽しかったわ〜

最後に中川さんに教えていただき、この有峰森林村を訪れ、発見した記録を各々がファイルに書き込みます。八雲会では2005年からの記録がありました。
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登山、というほどのものではなく、健康的なウォーキングと素敵な森林浴を体験し、八雲へのご挨拶(「八雲立つ樹」の成長を見守って)、そしていつもの八雲からのつながりで学ぶ富山の歴史・・・、有意義な1日でありました。

立山山麓エリアガイド―有峰エリア
 http://www.tateyama-sanroku.jp/arimine.html

有峰森林文化村 http://www.arimine.net/
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NHKラジオ英会話・遠山顕先生の弾き語り

2011/08/11 18:19
もう1週間経ってしまいました。8月4日(木)夜、呉羽山のレストラン「万理摩理」で、素敵な、日本語・英語の琵琶弾き語りを楽しみました。なんとNHKラジオ英会話の講師遠山顕先生が・・!

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 ラジオ英会話 遠山顕先生とネイティブ講師 NHKラジオ英会話HPより

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        遠山先生のNHKテキスト  さっそく8月号を買って来た・・


さてさて、日本語でも琵琶の弾き語りなんてびっくりですが、英語で? 今日はどうなることやら興味深々、恐いもの見たさで夕刻6時半、八雲会の会員さんのレストラン「万理摩理」へ赴く。
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         まずは呉羽山の深緑と豪華弁当を味わってから 

7時半暗闇も迫って、辺りは琵琶や「むじな」にふさわしい雰囲気に。会場の2階へ移動すると総勢30人ほどの和気合い合いの満席独演会は先生の人柄を反映してみなsmilingで開演を待つ。

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      ラジオ英会話でお馴染みの先生が今日は笑涙琵琶語り部

プログラムは・・・
  和・英で弾き語る日本の歌・物語
 出し物は・・『平家物語』より「祇園精舎」  
     小泉八雲 「むじな・Mujina」
     小泉八雲 「欠片(かけら)・Fragment」
     民話 「ねずみ念仏・ The Mouse Sutra] (これは上演せず)
     民話 「貧乏神」
     『平家物語』より 「那須の与一」(和)(与一以外は和・英演奏)
    


NHKのラジオ英会話の講師、遠山顕先生は、耳からの英語を学ぶ人なら青春時代から?ずっとお馴染みのかた。でも、琵琶の弾き語り?? 平家物語・・? 小泉八雲・・? という違和感あるキャッチフレーズに曳かれ、私も呉羽山に馳せ参じた。実は、有名なお名前はずっと昔から知っていたが、最近数年ラジオとはちょっぴりご無沙汰。そして実はその昔も、遠山先生のハイテンションの調子には、ちょっとネクラな私はついていけなくて、継続的に先生の講座を聞いたことはなかった。(そもそも私はラジオ講座継続の落第生)  八雲といえば八雲会。会から案内を頂いて、日本文学を英語で弾き語り、しかも琵琶!に引っ張られて出かけたのだった。

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祇園精舎の琵琶の世界に・・音量豊かな素晴らしい声 英語も!琵琶に合う!
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         熱演! 「Mujina むじな」  日本語と英語で
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                「お女中〜! お女中!!」

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衣装を換えて ムードも変えて・・・衣装換えの合間にもお馴染み駄洒落やjoke

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         琵琶の響きが空気を揺すります  時にしんみりと
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                   だ、だい熱演です・・
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           お話の中にのめり込む  私たち観客も
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           笑って聞き惚れる ―「貧乏神」
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              最後は「那須与一」で決めます
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終わったあと、青春時代から大ファンだというYさんがサインをお願いして
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             八雲会のみなさんも大満足

英語の発音は言うまでもなく、そのリズムと抑揚の心地よさ日本語とは違う響きに酔いしれる。題目の合間には、いつもながらの楽しいジョークと駄洒落・・・。 琵琶といい、いろんなことへchallengeされる才能が素晴らしい。

 遠山顕先生HP http://www.kentoyama.com/

(翌日、市内で英語の先生達の会合で講演された先生は、終わった後、富山大学のヘルン文庫を訪れて下さったとか。「美事に管理がなされていて感動しました。主幹の栗林さんの控えめながら実に情熱のこもったお話でたくさん学べました。」ということでした。)


ところで遠山顕先生とは・・・(Wikipedia より)
とおやま けん(1947年 - )、北海道出身
 東京外国語大学英米語学科卒業。 テンプル大学大学院修了(英語教授法)。 神田外語学院英語科主任、ラジオ「百万人の英語」「英会話入門」「英語リスニング入門」講師、東洋英和女学院大学助教授、テンプル大学ジャパン客員教授(異文化交流コース)などを経て、現在、COMUNICA, Inc.(コミュニカ)代表、東京大学EMP講師。

「百万人の英語」講師時代より、独自の肩肘を張らない教授法に人気があったが、その遠山をNHKが1994年4月から新規に設置したラジオ講座「英会話入門」で採用したことにより、英語講師としての評価は揺るぎないものになった。

「語学」ではなく「話学」が大切と本人も主張している通り、いわゆる「学校英語」の文語的文法を教えるのではなく、「どう話すか」「いかに話すか」ということに主眼を置いた実践的な指導を行っている。


 この講演後、かなり傾倒した私はいつものしつこさでWikipedia はじめ net サーフィンしてみると・・・
まず先生の年齢に驚いた。何故か前から、実際よりは10歳くらいお若いと思っていたのだ。だって元気で若々しいラジオ講座の雰囲気。 1947年生まれ・・・(でもやっぱり10歳くらい若い年齢でも通りそう)。

 さらにこんなサイトが見つかる。
日本英語検定協会が提供するビジネス英語情報誌PLUTS通信 web 版。
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 Ken's Cafe     http://www.eiken.or.jp/bulats/kenscafe/special01.html

俳優の寺泉憲さんとの対談。寺泉さんといえば、昔NHKの朝のドラマ「さくら」でハワイに住む日系二世の父親役をして、その彼へのインタビュー番組を聞いて驚いた覚えがある。彼は、大学時代(慶応)ESSに所属して、その時英語劇を経験したことから英語を磨いたということで、その英語劇体験に私も少しばかり共通の思い出があったので、はるか昔の記憶が浮かんできて、テレビに目が釘付けになった。

その寺泉さんと遠山顕さんは同じ年齢で、それぞれ大学は違っても、同じ英語劇で知り合いになった、というのが、このサイトの私にとってのサプライズだった。 
Wikipedia の遠山顕の項目にも、学生時代より演劇に興味を持ち、英語劇のサークルに参加していたこともあり、現在も外国人とのコラボレーションなどを通じて、独自の演劇活動を行っている。その他、趣味としてクロスワード、ビリヤードなどもあり、彼のこうした多才さ、好奇心の強さは、英語指導の随所に生かされている。 とある。

私が以前に聞いた寺泉憲さんのその同じ英語劇体験の思い出をこの「英語賢人の同窓会」でお二人で語っていたのだ。
  「大学1年の時、ESSに入ると、活動の一環の英語劇に興味を持った。その頃、慶応や遠山さんの東京外語大のESSは TIAF(四大学英語劇連盟)に入り合同で年に1回、都内で英語劇を公演していた。 その頃、アメリカからフルブライトで招かれたリチャード・バイアさんというブロードウェイ関係のアメリカ人が、日本の大学生の英語劇を見てその未熟さに驚き、ESSで英語劇に関心のある学生を募り、「Our Town」という劇を通して、モデル公演、演劇指導をすることになった。 彼ら二人はたまたま初回のそれに参加して友達になった」 ということだった。

ESS, 英語劇、TIAF,Our Town, リチャード・バイアさん、これだけで十分だった。それらの音だけで、私の中に何十年も眠っていたなつかしい記憶がまた甦った。(実際には寺泉さんの10年前のインタビューが1回目の衝撃だったが)

実は、英会話力においても雲泥の差以上の差で比べること自体が法外なこの私も、大学時代ESSに入って、英語劇をしていた・・。そして遠山先生たちの英語劇連盟よりもう少し素人度の強い?六大学英語劇連盟(JET)というので6つの大学が2つずつペアーになって{東京外語大と東京教育大、東工大と青山学院短大、東京医科歯科大とお茶大}、毎年3つの英語劇を、公会堂など借りて公演した。大学1年のとき、右も左もわからない田舎ガールの私がESSに入ると、まずはESS活動の一環の英語劇があり、上からのお達しを聞いた。「皆さん、“Our Town”にどんどん参加してください。リチャード・バイアさんというかたの専門的指導が受けられ、英語力もつきますよ」をただ聞き流し、公演だけみんなで見に行ったのだった。今から思うと、このとき、遠山顕先生と寺泉憲さんも出演していたのだ!!

リチャード・バイアさんについてはこの頃何も知らなかったが、こういうかただったのを今知った)。
http://eigogeki.net/history.html

ESSか・・なつかしいな。しかし、同じESS部員でも、その後の明暗はどうだろう・・・(涙・笑) 私がESSの英語劇で得たものは英会話力でなくて、隣りで大きな口を開けて西瓜を食べてるオットだった・・。

ところで、NHKの語学番組は1週間遅れでnetでも聞けます。しかも自分の都合のいい時間に。私がさっそく8月1日分から聞いているラジオ英会話。 テンポがよくリズミカルで、なかなかとってもいい感じ。飽きさせないし例文も身近で覚えやすい。(授業でも使えます)。遠山先生の琵琶弾き語りを聞いてしまったせいかな? 昔よりもずっと波長に合って、構成も楽しい15分。番組最後の場面設定を変えたスキットが可笑しい! ネットで聞けば自分の好きな時間に聞ける。 子どもの頃から私の勉学へのモチベーションは「人・先生」であった。
 遠山顕 ラジオ英会話 http://www.nhk.or.jp/gogaku/english/kaiwa/
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浅野忠信さんのファミリーヒストリー

2011/08/04 14:12
昨夜8月3日(水)夜10時、NHKのドキュメンタリー番組『ファミリーヒストリー』俳優の浅野忠信さんの家族の歴史、絆を追ったものだった。

浅野忠信さんは、この夏封切りのハリウッド映画「マイティ・ソー」に抜擢された。浅野さんにとってハリウッド進出には、ある思いが隠されていた。それは、一度もあったことのない祖父のことを知るためだった。

祖父、ウィラード・オバリングさんは、終戦直後、日本に来たアメリカ兵だった。しかし、朝鮮戦争後、家族を残しアメリカに帰った。浅野さんは、祖父のことを知りたいとずっと願ってきた。これまで祖父のことを出来る限り調べてきたが、分かったのは、祖父がすでに亡くなっていることだった。祖父の人生と、祖父はどんな人間だったのか知りたかった。それは、自らのルーツを突き止めたいという強い思いからだった


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          会ったことのない祖父への思い

2007年に始まった『剱岳・点の記』の撮影まで、私は主役の浅野忠信さんを知らなかった。彼は極めて日本的な美男子だと思うが彼の母方の祖父は「アメリカンインディアン」の血が流れているということだった。そんなことから、彼自身が意識して「日本」という枠から飛び出して大陸に(映画『モンゴル』)そしてハリウッドに(映画『マイティ・ソー』)と飛躍の方向を拡げている、と語っているのを聞いたことがある。

3日の番組『ファミリーヒストリー』では、その会ったことのない「アメリカンインディアン」の祖父の足取りをたどるということだった。戦後、幼い娘を置いて、日本からアメリカへ帰国して以来、途絶えている父の消息を、浅野さんのお母さん順子さん(60歳)とともに見守った番組だった。

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  4歳で別れたままのアメリカ人の父を語る浅野さんの母 順子さん

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        「生きているうちに1度は会いたかったと思います」

さて、浅野忠信さんのアメリカ人の祖父とは・・?

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昭和22年 進駐軍の兵士で日本にいたオバリングさんは浅野イチ子さんと結婚
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            ウィラード・オバリングさん 23歳  
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            イチ子さんは再婚で38歳だった
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         浅野ファミリーのつながりがわかるのはここまで

順子さんが4歳の時一人アメリカへ帰った父とはその後全く音信が絶えて消息がわからない。手元にあるのは父の名前と結婚した時の写真だけ。
移民の国、人種のルツボのアメリカにはそのような家族や先祖の消息やルーツを探す支援センターが各地にあるという。
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            Family Search Center
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      そこで探すとウィラード・オバリングの名前が見つかった
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            ミネソタ州ウィノナ が彼の故郷だった
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    何とそこにはウィラードの1番下の弟ゴードンさんが住んでいた
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    オバリング家の写真にはウィラードもゴードンさんも写っていた
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    「兄ウィラードには日本に娘がいたことを全く知りませんでした」

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    さらにこんな貴重なウィラードの両親(浅野の曽祖父母)の写真まで

ここで重大な新事実がわかった。浅野一家では祖母イチ子から、ウィラードには先住民(アメリカン・インディアン)の血が入っていると聞いていたのでそう信じてきたが(浅野忠信もよくそのようにインタビューなどで語ってきた)、そういう事実はなく、ゴードンの証言では父親はオランダからの移民(母はノルウェー)だということだった。 この故郷ミネソタ州のウィノナという地名は先住民の言葉で、先住民との関りの深い土地だったので、片言の英語で会話をしていたイチ子が聞き間違えたのだろう・・。

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ヨーロッパからアメリカへの移民がみなそうであったように、オバリング家の開拓の歴史も非常に厳しくウィラードは高校にも進学出来ずアルバイト
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            やがて18歳で軍隊に入隊した
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    彼はケンタッキー州フォートノックス基地で調理兵として働いた

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   初めて明かされる父・祖父のルーツに感慨深く見入る浅野さん母子

ウィラードさんと結婚した順子さんの母イチ子さんの歴史も波乱万丈
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      戦前両親と満州の大連に渡り、そこで最初の結婚する

しかし、子どもができなかったこともあり数年で離婚、芸者の置屋をしていた父親の仕事の関係で芸者になるが、終戦となり親も他界、一人故郷の広島へ引き上げて来るが、そこは原子爆弾が投下された瓦礫の街でしかなかった。そこで横浜に出て行き、友人からウィラード・オバリングを紹介される。

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        やがてウィラードは横浜に家を買い、二人は結婚 
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優しいウィラードとの幸せな結婚生活 彼が朝鮮戦争に出兵していた時順子さんが生まれる
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             順子さんの写真の裏には
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       彼が書いた June(ジューン) Overing という名前が

しかし、やがて駐留軍の撤退が始まり、ウィラードさんもアメリカに帰ることとなり、妻子も一緒に連れて行こうとした。しかし、英語もわからず、15歳も年下の夫との先行きに自信が持てなかったイチ子さんはアメリカへ同行する道を選ばなかった。ウィラードは単身帰国し、イチ子さんも彼への思いを断ち、結婚写真を真二つに切った。
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一方、アメリカへ帰国して4年後にウィラードは再婚したことがわかった。

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         相手は、連れ子の二人の男の子を持つ女性
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      この家族のために彼は生涯必死に働いて家庭を支えた

調理兵としての経験を生かし、帰国後レストランなどでコックとして働いたウィラードは真面目に誠実に職務に励み給仕長として賞をもらったことが報道されていた。
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その再婚した妻の連れ子である義理の息子ジェームズがインタビューに答えた。
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          「当時、決して生活は楽ではありませんでした」
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      「それでも父は、家族を支えるため一生懸命働き続けました」
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       「人生とはこう生きるんだと行動で示してくれました」
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      「1度だけ過去を話してくれました。 日本に娘がいる・・と」

そして・・・。
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         1992年、今から約20年前
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          ウィラードは65歳の生涯を閉じてここに眠る


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日本に残した娘順子さんも結婚し二人の子供が生まれた(次男忠信と)
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        イチ子も2004年に93歳の生涯を終えた


 そして、父ウィラードが亡くなり、義理の息子が遺品を整理していると・・・
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         父のぼろぼろになった財布から出てきたのは

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       日本に遺してきた娘順子の写真だった・・・・

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        この衝撃の事実に落涙する順子さん
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           浅野さんも・・

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        胸が張り裂ける、としか言いようがない
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         一人の人間の何と重い哀しみの人生だったことか

このような長い時間の流れに隠れ、耐え抜いて、時を経て発覚した愛の事実に私は最も弱いのだった。「マディソン郡の橋」、小池真理子の「恋」もそうだった。映画「おくりびと」で主人公の死んだ父親の手にしっかり握られていた石・・・。今様の軽い言葉でいうと号泣だった。浅野さん母子の感動と哀しみの気持ちが伝わってくる。

それでも非常に嬉しい事実は、父であり祖父であるウィラードさんが、大変誠実な愛情深い人であったことが実証されたことだった。日本に残した妻子を忘れることがなかった(恐らく生涯苦しみながら)。再婚した義理の息子たちをも父親として一生懸命育てた。そして賞をもらうほど、自分の職業にも全力を尽くしてきた。そんな素晴らしい父親であり、祖父であったということが、今回TV番組を通して彼が心を残した子や孫に伝わったのだ。。

番組の最後は、そのウィラードさんの義理の息子たちが、ウィラードさんにとって血を分けたただ一人の娘や孫と対面した。「絆」である。
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     順子さんと抱き合う、ジェリー&ジェームズ・オバリング氏   
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素晴らしいドキュメンタリー番組だった・・。


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神通川の花火大会 ―富山大空襲から66年

2011/08/02 15:34
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                  北日本新聞webun より

また8月1日が来た。 昭和20年の富山大空襲の犠牲者への鎮魂と戦後の復興と平和を祈って、昭和22年から始まって今年で65回目だそうだ。今年は東北の被災地復興への願いもテーマに加えられた。

毎年8月1日は富山の空を大輪が花咲くが、私は何回見たのだろうか。あるときは隣りの義父の家の屋上から遠くに眺め、ある時は一人で車をとばし、西田地方の堤防に登って見る事4,5回。本当に河川敷から間近に見上げたのは1回だけ。富山での30年近く、半分以上は部屋で音だけ聞いていたことになる。数年前から2,3年、堤防近くへ行き、花火をカメラで撮る事に熱中したことも。デジカメではタイミングが合わなくていまだにあの夜空に開く大輪の感動を満足いくように撮れない。

 今年は初めての水墨美術館からの花火観賞。 前日夕方に松井さんご夫妻に誘われて。水墨美術館は神通川の堤防近く、打ち上げ場所よりは少し下流である。 
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                夕刻、ちょっと遅れて美術館へ着く
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            雨の心配がなくなって 涼しい夕風が爽やか

 花火は7時半から1時間ほどだが、6時半から水墨美術館の玄関ロビーで美術館友の会主体の100人ほどが打ち上げまで、軽い夕食を頂きながら軽音楽の演奏などを楽しむ。(夕食は「五万石」の美味しい豪華お弁当)

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   フルート奏者・ポップ歌手として富山で活躍するお二人が演奏

 松井さんともくもくとお弁当食べながら演奏も味わっていると・・・ふと目の前の隣りのテーブルに・・・。
ねえ・・あの前の横向きのかた(松井さんの従兄弟で、前八雲会会長の)南日先生に似ていらっしゃらない?」 
「えっ、あらほんと〜。そっくり・・・」
「でも、東京にお住まいの先生がここにいらっしゃるはずがないし・・」
「確かに!」

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     右の横向きの紳士を10分ほど二人で眺め観察?議論した

「それにしても、他人の空似と言うけどこんなに似ている人っているかしら・・・」
「いとこの松井さんが言われるんだから、私の見間違いでもないわよね」 
「ほんとに彼そのもの。のちのちの話のためにも、写真撮っておきたいわね」
「そうしましょう」

というとんでもない成り行きになり、私は探偵みたいに、さりげなく写真をとるという大それたことをしたのだった!大変な音響での演奏の中、そう明るくもない環境のなかでだれにも気づかれずに。

 ついに7時半の花火開始時間になり、音楽集会が終わったとき、実はもう70%はそれは南日先生に違いないという確信に変わり(でもやっぱり半信半疑)私が先生の前に行きお声をかけることになった。
正面から見てもやっぱりそれは素敵な紳士・南日康夫先生だった。先生もびっくり!!今朝クラス会のために東京から出ていらしたとのこと。富山のお友達とご一緒だった。 可笑しな私たち!

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         みなで思いがけない合流をして中庭の芝生へ出る

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       思い思いに芝生に座りこんで前方の空を眺める
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           あ、きれいに撮れた鮮やかな大輪
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            南日先生と同級生のTさん
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      去年現役を離れたご主人にいつも優しく付き添うKさん


 1時間は幻の夢の時間。花火って不思議な光の群団。それを見つめながら人はそれぞれ何を考えているのでしょう。
夢の時間を終えてやわらかく冷たい芝生から立ち上がるのもちょっと努力がいる。南日先生は腰を下ろす前からそれを恐れて躊躇されていたが、やっぱり普段されたこともないそんな姿勢から立ち上がるときはちょっぴり大変で、お友達と私が先生の手を「よいしょ!」と引っ張った。
「やれやれ・・ありがとうございます。年はとりたくないですね。Mさんに手を引っ張ってもらうとは思ってもいませんでした
(私も前八雲会会長で元筑波大学副学長の南日先生を引っ張り起こすなんて夢にも思いませんでした・・・・笑) (そういえば昨日も、庭に尻もちついて起きられなくなった義父をよいっしょ、と引っ張り起こしたっけ)

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水墨美術館の環境は素晴らしかったけど、仕掛け花火は見えなかったし、真上に花火を見れなかったのもちょっぴり残念。 でも・・・素敵な楽しい夜でした。66年前に空襲で負傷した10万人の方々の魂は慰められたでしょうか。

 2008年8月2日に書いた「鎮魂の花火大会」  
http://marilyn-m.at.webry.info/200808/article_1.html 
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児玉龍彦教授 国会参考人 ― 放射線の健康への影響

2011/07/30 20:43
私の東京の友人、大木晴子さんのブログ『明日も晴れ』を開くことは、(家にいるときは1日数回開くことも)4年前から私の日課になってしまった。その人生も思想も、ブログの内容も、私の及ばない世界のもの、と感じながらも、今では大いに感化されざるをえない存在である。

その晴子さんご自身も、今年の1月から突然の大変な病いと闘い、また愛犬で大事な家族の一員ジローくんを15歳9ヶ月で、今月25日に亡くしたばかり。その中で強く、明るく、大らかに、より良い社会を求めて、信念を曲げず自分流に社会に働きかけ続ける晴子さんに私はどんなに励まされていることか。

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    大木晴子さん もう9年目 毎土曜の夕方 新宿西口広場に立つ

その晴子さんのブログ『明日も晴れ』に、28日付けで原発に関するこんなページが出ていた。(明日も晴れ http://seiko-jiro.net/)

 よく、はっきり言ってくださいました!児玉龍彦さん、ありがとう。
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          参考人として意見を述べる児玉龍彦教授

「2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦
2011年7月27日 (水) 衆議院厚生労働委員会 「放射線の健康への影響」 について参考人説明より

児玉龍彦さん(参考人 東京大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長)

このLANをクリックして開いた私は、次第に目と耳が児玉教授の映像に、そしてスピーチに釘付けになった。国会の衆議院の参考人として「放射線の健康への影響」を専門の立場から、鋭く、しかも胸をつまらせて感情こめて訴えた説得力あるものだった。下に載せますので、どうぞクリックしてちょっとだけでも聞いてみてください。
× http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo&feature=player_embedded

すみません、これは今日削除されたようですので、下のもう少し時間的に短いものを見てください。

  http://www.youtube.com/watch?v=DcDs4woeplI

内容もさることながら、これだけの時間(実際は15分余り)を原稿なしでよどみなく(かなりのスピードで)、しかも大変わかりやすく説明している動画に、この散漫な集中力の私でさえも最後まで聴いてしまった。
それでは、私にとっては初めて知ったこの参考人 児玉龍彦氏とは?
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教授児玉 龍彦  所属 東京大学先端科学技術研究センター 専門分野 システム生物学 略歴 1977年東京大学医学部医学科卒業、医学博士。 1984年東京大学医学部助手、 1985〜1989年マサチューセッツ工科大学生物学部研究員、 1996年先端科学技術研究センター教授

このスピーチの中で、放射線内部被爆が専門と言われた。内部被曝の専門家であり現在除染活動に従事している児玉龍彦氏の言葉には説得力がある。福島の子どもたちを守るため、早急な具体的措置、政策を政府に提言している。何故かこんな重要な提言を新聞は載せてないが、提言を聞いた人々の反響はすごかった。まず、彼の立場でここまでしっかり信念を持って発言した勇気に驚く。 日ごろあまり共有するものがないわがhusbandも、このスピーチには最後まで聞き入っていた。
youtubeにも反響のコメントが続々と・・・・。

 僕は、児玉先生と、ヴァージンアトランティックで隣り合わせになってからのお付き合いですが、研究者としてNatureの表紙に­なったぐらい優秀である他にも、こういう熱くて素敵な方であることに今更ながら涙しました。

 このような良識と人間性を兼ね備えた学者が東大にいたことに心から安堵すると共に今の事態の異常さ、深刻さを改めて認識した。一刻も早い措置が必要である。政府は全力を尽くし、子供達を守る方向に向かって欲しい。

 専門家からの事実に基づいた意見は非常に説得力があります。政府にしてもらいたいことを具体的に言ってくださっていること素晴ら­しいです。こういう方がいらして本当によかったです。人間的にも素晴らしい方だと思います。涙が出ました。応援したいし頑張っていただきたいです。ぜひ英語に訳して世界に届けることができたらいいです。こういう人がいて良かった。

 380,000以上のアクセスがありながら削除ですか?何故でしょうか?youtube の利用規約に反していると記載がありましたが、そんなことはないでしょう? 震災から5カ月が経過しようとしている、その中で、児玉龍彦氏なる人物を知ったのは初めてです。震災後、いや、それ以前から活躍なさっておられる医師とお見受けいたします。正しいことを発信されていることとお察しいたします。 「放射線の健康への影響」について明確に正面切ってお話をされる方は初めてではないでしょうか?終始一貫して前を向いてお話をされておられます。どこかに書かれてある文章を棒読みしてはいない。自分の言葉だ。結局「法律違反」を犯してまで命を張っておられるようにお見受けいたします。そのまま真剣さが伝わってまいるわけです。


さらに今日の大木晴子さんのTwitter から、児玉教授の息子さんの言葉を読むことができた。

 児玉教授の息子さんの教授国会発言関係のツイートまとめ a_kodama  

親父が厚労委員会に参考人として招致されました。
東大放射線センター長として、毎週末南相馬に400km車を走らせて、自身で除染にあたったうえでの訴えです。 

とても多くの方から父の参考人招致について激励の言葉をいただき、感謝の言葉もありません。全ての皆さんにお返事するのが難しいほどですが、全て拝見していますし、父にも伝えます。本当にありがとうございます。 

父は、3.11の前に東大のアイソトープセンター長に内定しており、放射線の研究が本業というわけではないのですが、このタイミングで父がなっていたのも何かの巡り合わせか、という気がします。 ちょうど一年前に父から肝臓移植をした母は、おかげさまでかなり体調が回復し、今度仕事にでることになりました。あの時もいろいろな方に激励をいただきました。この一年間本当にいろいろなことがありますが、家族一同支え合ってなんとかやっています。

親父からはいつも、勇気ということを教えられてきた。親父の立場で、公開の場でああしたことをいうのは、どれだけの勇気がいったことだろう。まずはそれをねぎらってあげたい。 親父のスピーチを通して、どうか学者にも社会のため、人のために真摯に仕事をしている人間がいると伝わればと思っています。利権やポジションにとらわれた人間の多さに嫌気がさすこともあると思いますが、物事をよくするために行動することをどうかあきらめないでください。 

繰り返しになりますが、父のスピーチに激励をくださった皆様、本当にありがとうございます。 親父のスピーチを見ていただいた方に、一つだけお願いさせてください。父は影響力のある科学者ですが、同時に病気の妻を抱えた58歳のただの男です。一人ですべてを解決できるわけではありません。本当に状況が良くなるために、一人一人ができることがあると思います。・・・・・
  
(息子さんのTwitterでのつぶやきを本人の了解を得て知人がまとめたものだそうです)                 
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女神湖畔のWedding

2011/07/25 01:40
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           信州蓼科高原 緑の牧場の彼方に蓼科山が

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               蓼科高原女神湖畔のホテルで

 甥の結婚式がありました。 
真夏の高原、ロマンチックな女神湖の傍、ホテルアンビエント蓼科(もと女神湖ホテル)で、家族と親戚だけ20名ほど、和気藹々の結婚式でした。

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            本日の司会は新郎の双子の弟さとしくん

ふつうの結婚式とちょっぴり違うのは・・・主役が3人いること。

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                  主役の一人 もえちゃん
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もう一人の主役はもちろんもえちゃんのパパ  会場をまわってみんなからお花をもらいます
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              「もえちゃん おめでとう」
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     席に着いて二人で待っています  湖からの風がさわやか
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ハイライトは もえちゃんのママ、いえ新婦がお父様のエスコートで入場

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         女神湖を背景に 3人の主役が席につきました  
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          指輪の交換を見守るもえちゃん
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              はい、愛のwedding ring です!
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パパとママがもえちゃんのほっぺにキスをして人前結婚のセレモニーは終わりました

やすしくんとたえさんが結婚したのは今から6年半前。仙台の大学でやすしくんが理学部4年生、たえさんが法学部の2年生の時でした。二人は同じバレーボール部で知り合い、結婚した年の4月にはもえちゃんが誕生、大学院に進んだやすしくんと、ママになって1年休学したたえさんの子育て学生結婚が始まりました。 その当時はどちらの両親も晴天のへきれき、でも生命に対する二人の愛と信念はゆるがず、両親に理解を求め許しを請い、もえちゃんが生まれた2年後、二人は無事に大学と大学院を終了しました。たえさんは群馬の前橋出身ですが、やすしくんは故郷の長野県で企業に就職、二人は3年前から長野県民になりました。そして今年の4月にはもえちゃんは早小学1年生に。

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   さてこちらのテーブルは新郎のいとこたち NY留学で一人欠席
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7人のいとこは全員男 小さい時から夏や冬の休みに集まってスキーやサッカーなどで遊んだ仲良し

3,4年前、みなで長野から富山へ旅行に来たとき、お喋りの中でたえさんに聞いたことがある。「たえさんはやっちゃんのどこが好きなの?」なんて・・。すると、「バレー部だったんですが、アタッカーのやすしくんがカッコよくて・・」という答えが皆を笑わせた。真面目に真剣にかわいい声で答えるたえさんがかわいらしかったが、この答えには「さもあらん」。やっちゃんは上田高校でバレー部の名アタッカー、キャプテンだった。一度、高校まで練習試合をしているやっちゃんをみんなで見に行ったことがある。身長は170センチくらいだが、そのジャンプ力とアタックの威力はすごかった!そういうスポーツでの活躍場面で女の子の目が点になるのはよくわかる(笑)。

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          さてさて今度はお待ちかね wedding cake
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              むがが・・・がが
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         結婚式だってこと忘れているんじゃない?
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                何と親までが・・・

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            テラスに出ると涼しい高原のそよ風
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        東京から駆けつけたこうすけくんは2年前に結婚
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              目の前の湖は澄んで静か
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   美味しいフランス料理の後は初対面のかたとも話がはずみます
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               いとこたちといっしょに記念写真
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    やっちゃんはわりと無口でとっつきにくいところがあるけど・・

さあ、11時に始まったweddingも和やかに楽しいときが流れ、終盤に近づきました。

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                   双方の両親が並んで
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     新婦のたえさんの感謝の言葉 読む前から胸がつまって

学生の身で母になり、両方の両親には多大な心配をかけたこと、それでも理解と暖かい支援のもと、無事に大学を卒業でき、こうして幸せな家庭を築くことができたこと、自分の言葉で長い文面を涙とともに読みました。
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         そして今度は新郎の父 こちらも感無量・・・
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                 言葉が出てこない
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             こちらもうな垂れてしまう
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最後に新郎のあいさつ やっぱり涙 今日のもえちゃんはびっくり体験

7年遅れのwedding party だった。 涙は喜びからだけでは生まれない。辛い日があったから・・・。人生の思わぬ予定修正もあっただろう。でも、もえちゃんが生まれた時のやすしくんの葉書が忘れられない。「子どもがこんなに可愛いとは知りませんでした。もえにめろめろ、まいっています」 
二人がそれぞれ卒業し、やすしくんが就職できた3月の葉書が印象的だった。「これからはやっと自分達の力で進んでいくことができます」・・・親の愛情と理解のお陰とはいえ、自立できないことはどんなに辛かったか。

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             このパネルに今日までの道のりが


ホテルのマイクロバスが3時に送ってくれることになっていた。家まで30分、高原を走るバスの中は明るい笑い。

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     帰りにホテル送迎バスの運転手さんが馬の牧場前で停めてくれた
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   さわやかな高原には 放射能の心配もなく幸せに草を食べる馬たちが
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長野県一の巨峰とりんごへお別れ

2011/07/19 22:05
今朝、信州より電話。突然の訃報。「突然」というのは私が遠く富山に住んでいて情報が聞こえてこなかったからだろうけど。朝早くからの電話は、わが父親の突然の訃報以来どきっとさせられる。

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               信州上田市の塩田平

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               塩田平の巨峰
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                  塩田平の「ふじ」りんご

昨年まで20年来、「長野県一」だと自負する巨峰とりんごを生産し、送り届けてくれた岩井農園の岩井邦(さかえ)さんが昨日亡くなったという知らせだった。なんと76歳という若さ! 邦さんは父の従兄弟である。9人兄弟の三男で、私の家とも近かったので私は若者時代の彼を知っていた。大きな身体、大きな目、がっちりたくましく、でも優しい人だったのを覚えている。そのうち私が家を離れ高校、大学と行っているあいだに、彼は上田市の豊かな土壌をもつ塩田平の農園へお婿さんに入った、と聞いた。

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いつの頃か、信州が巨峰の産地になり、また本来のりんご生産もますます栄えて、東京、大阪、富山と暮らしてきた私は、初めは親から、別の生産者からのりんごや巨峰を送ってもらっていたが、富山へ住むようになった頃から、邦さんの巨峰とりんごが贈られて来て、私自身も親戚や友人、知人に贈ったり頼まれて注文したり、秋になると邦さんとの交流が年中行事となった。

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         邦さんの巨峰は絶品!食べた人はみな絶賛
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      そして「ふじ」も スーパーで売っているのと味が全然違う!
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                蜜があるから美味しいとは限らない 

私は自信をもって贈ることができたし、邦さんも、「うちの巨峰とりんごは長野県一だよ!」と自慢する。自信をもって自慢ができる作物を作る喜びと生きがいは格別。それでも自然は厳しく、3,4年前は、7月ごろの雹(ひよう)で青いりんごのうちに地面に落ちてしまったり、台風にやられたり、そんな間をぬってわが子のように育ててきた愛おしい巨峰とりんごかと思うと、いつも有難く、幸せな気分で味わった。 

そんな日が終わりを迎えるなんてこれっぽっちも思っていなかったのに、昨年2月、「貧血」がひどくて佐久総合病院へ1ヶ月余り入院し、退院したけど今までのように仕事はできない。また入院していたので、作物はその間手入れもできず今年は(送れるようなものが)できるかわからない、ということだった。そのショック! もちろん私よりもご本人の辛さはいかばかりか・・・。傍の家に住む息子さんは農園の仕事はいっさいせず、お勤めとのこと。ちなみに果物農家でもその後継者のいないところが多々あるらしいのだ。長野県を代表する産業なのに!

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           病床の夢はりんごの花咲く農園だろうか
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昨年は、それでもわずかだけ送っていただいた。・・・その暮れに電話でお話したのが最後になってしまった。血液のがんらしい、とちょっと噂が入ったが、まさかこんなに早く亡くなるとは思っていなかった。私は朝から悲しくて悲しくてこの辛さをだれと共有したらいいのか、それも出来ず、お香典を送っても、今なお自分の気持ちをもてあましている・・・。20年間味わった果物が彼の心と肉体と共についに消えてしまったことが哀しみを倍増させる・・・。

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 何年にもわたるFAXで送った注文書が悲しく、みなゴミ箱へ捨てた

それでも癒されない今夜の私・・。
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『剱岳・点の記』 木村大作監督久々の講演!

2011/07/11 23:23
3年前2008年の7月13日。 小説のストーリーに従って順番に撮っていた『剱岳・点の記』の撮影も、いよいよ明治の柴崎芳太郎の測量隊と同じこの13日に剱岳山頂に到達しようとしていた。奇しくも13日は監督の69歳の誕生日だった。

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      2008年7月13日剱岳登頂 でも霧で撮影は行われなかった

そして4日後の7月17日、最後の望みを賭けて再び山頂ロケに挑戦。ついに奇跡的な天候に恵まれ、ロケは成功した。

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          2008年7月17日登頂達成
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          剱岳登頂を果たした測量隊(映画シーンより)

監督は13日でなく17日を自分の誕生日にしようと・・・ホントに市役所へ行ったのかは疑わしいが、誕生日変更は出来ない、と断られ、しかしその日から7月17日を誕生日と決め、毎年この日には剱岳へお礼参りに来られている。残念ながら毎年天候に恵まれず未だ登頂を果たしてないけれど。 

今年もそんな誕生日が近づくころ、8日県民カレッジの講演会でお話を。富山では10ヶ月ぶりの講演だ。於教育文化会館。

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     「誰かが行かねば道はできない」 相変わらず元気いっぱい
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     監督のユーモア、人生哲学は、笑いの中でも感じるものが必ずある

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「どんな人間も幸せばかりではない。 幸せの中に何がしの不幸を抱えているはず・・」

という独特の人生観が(ありふれた言葉かも知れないが)私の心に響く。独自の道を、自己流とこだわりで突き進み、壮絶な映画人生を貫いた人の言葉は特別な味わいを持つ。また『剱岳』のような、CGを使わないこだわりの映画を撮ることの難しさも吐露した。新田次郎の作品『孤高の人』を半年かけてロケハンして断念したことも告白。

いつも同じ題で、同じテーマ(なんてあるかな?)で、でもいつも内容が違う不思議なトーク。ほっておくと3時間でも喋り続ける、と本人が言う。その機転と話術と・・・飾り気のない気取らない本質がいい。私にとっては10回目!の講演だが、これからも何回だって聞きたいと、思うだろう。 「おもしろいこと言う男っていいよね」「ほんと、おもしろくない男ってつまんないよね」というのは先日妹と交わした軽薄な会話だが、別に監督のことを言ってるのではないのだけど・・・・。

講演後は、各種の関係者がインタビューに殺到。講演依頼などの対応に追われ、引く手あまたの監督だった。

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          「ふるさと文学館もよろしくお願いします」などなど

夜はプライベートに夕食をご一緒に。今回は美術監督の福澤さんも東京から同行して、翌日は立山へ向かう予定とか。

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       木村監督と福澤美術監督  天ぷらのお店にて

福澤勝広さんは東映の美術部のかた。『剱岳・点の記』をはじめ、『鉄道員』『赤い月』など木村さん(カメラマンとしての)とは多くの作品を一緒にされている。美術部のかたは、仕事上、絵がお上手なのだ、ということを知った。

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これは福澤さんのデザイン画 岩峅寺駅を明治の富山駅に見立てた図案
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          岩峅寺駅前での撮影 2007年9月
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      富山駅に降りた柴崎を迎えに出た長次郎 (映画のシーン)

映画というのは本当に多くの縁の下の人々の努力と工夫の上で成り立っているものだ、ということを『点の記』の追っかけで知り感心した。ちなみに、そういう映画人や映画人生の裏の裏まで記録した著書『誰かが行かねば道はできない』(2009)木村大作・金澤誠(キネマ旬報社)は私の5本の指に入る愛読書。

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          心おきなく楽しい時間を過ごした記念写真

ところで付け足しハプニング。翌々日、立山で泊まった監督は、たまたま所用ができてKさんの家に寄る事になった。それで場違いな?ひと時をもつことが出来たのはいい思い出。

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          Kさんのオーディオルームでクラシック観賞
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             次はどれをplay しようか・・
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              ビートルズやってみて!
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            はい、記念写真。
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       隣りの御堂も見学 「映画に使えるかな・・?!」
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       そしてお茶を飲みながら(タバコも!)リラックスタイムして
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           お疲れ様でした。このあと東京へご帰還。
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Facebook って?

2011/07/03 23:09
確か今年の1月ごろ、NYにいる息子から、facebook に入ってみる? なんて言われて軽く入ってみたのでした。そして5ヶ月が過ぎて、いまだによくわからない部分がいろいろあるけれど、やってみてわかったこともある。

そもそもfacebook とは? facebook サイトにはこんな説明があるけれど・・。

Facebookは、友達や同僚、同級生、近所の人たちと交流を深めることのできるソーシャルユーティリティサイトです。Facebookを利用すれば、友達の近況をチェックしたり、写真をアップロードしたり(枚数は無制限)、リンクや動画を投稿したり、知り合いと連絡 ...


・・・ということだが、「友達の近況をチェック・・・」とか「友達の消息を検索」と言っても、相手がfacebookに登録してあることが前提。そして「友達関係」を結べたら、その人の発信するメッセージや写真などの情報を、別の「友達関係の全員」とshareできるというわけだ。

 Wikipedia では・・・
Facebook(フェイスブック)は、Facebook, Inc.の提供する、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。2004年にアメリカ合衆国の学生向けにサービスを開始した。当初は学生のみに限定していたが、2006年9月26日以降は一般にも開放された。日本語版は2008年に公開。13歳以上であれば無料で参加できる。実名登録制となっており、個人情報の登録も必要となっている。
公開後、急速にユーザー数を増やし、2010年にサイトのアクセス数がgoogleを抜いたとして話題になった。2011年現在、世界中に5億人を超えるユーザーを持つ世界最大のSNSになった。


さらに理解を得るためにしつこく歴史にまで及ぶと・・起源はハーバード大学、そしてそこからアイビーリーグに広がったらしい。

2004年、ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグはハーバード大学の学生が交流を図るための「ザ・フェイスブック」というサービスを開始した(本人の登録制)。その数日後、スタンフォード大学やコロンビア大学、イェール大学などの学生からの「同じようなサイトが欲しい」との要望に応え、いわゆるアイビー・リーグの学生にも開放した。その後、徐々に全米の学生に開放され、学生生活に欠かせないツールとなった。大学のメールアドレス(.eduドメイン)を所有する大学生のみに参加が限られていたが、2006年初頭には全米の高校生に開放し、2006年9月までには一般に開放され、誰でも利用できるようになった。

さて私が経験したfacebook 5ヶ月。初めは、登録したプライバシーを、「友達関係」を結ぶことでそんなに公開してしまっていいのだろうか、と不安だったり、使い方や目的がよくわからなくて、「友達」はよく見知った親戚同志ばかりで笑ってしまったが、この2,3ヶ月で、結局、なつかしい人たち数人との再会(net上のコンタクト)が果たされた。

主に、学校の授業での留学生の人たち、卒業後日本の国立大学へ編入し、2年経って今年卒業、母国へ帰ったマレーシア出身のAさんやケニア出身のDさん、また16,7年前に生徒だったSくんなど。彼らの友達ネットワークを見ればいろいろ見知った顔も見られ、コンタクトがとりたければ「友達」になりたいとリクエストを送ることができる。

さて留学生の彼らは、恐らく国費での留学生、とても優秀であるし、国ではエリートだったのだろう。これから母国へ帰ってどんな人生を歩むのだろうと思い、これからもはるか遠くの国の彼らとコンタクトをとっていければ、と思う。

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Malasia 出身のAさん(右から2人目) 母国では公用語とはいえ完璧英語だった ひょうきんな彼女はわざとおどけ顔

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Kenya出身のDさん  いつも素敵なヘアーとファッションだった 宿題エッセイも「My family」という題で感動的だった

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Malasia出身のYさんは今年卒業して富山を去り東京の大学へ進んだ 自然体で友人みたいないい子だった

 そしてS君との再会。彼が大学合格した春、とF中の英語研究室を訪ねてくれたとき以来。手元にこんな昔のなつかしい写真があった。私が持っているS君の唯一の写真。

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      F中2年生のS君(右)と卒業生のT君を見送る

facebook検索でS君のプロフィールを見つけ、こんなメッセージを送ったのだった。彼は肖像写真にお酒のビンなど載せてふざけていた。(6月初め)そしてすぐ返信が来て・・。でもこれらの私信は公開はされない。

 Sくん、こんにちは。 多分、きっとSくんですよね。F中のキングだった?サッカーの名プレイヤーの? 英語の時間大ハッスルして教室を退場した? Beautiful Sunday を教壇で歌って踊った? Do you remember me?
・・・・2年前に街でK君のお母さんに会い、S君のお母さんが亡くなられたと聞き本当に驚き心配しました。
先日また偶然Kさんに大和で会って、S君は結婚されて赤ちゃんもおられると聞きました。がんばっていらっしゃいますね。私のF中の思い出の半分?はS君のやんちゃですよ。・・・


 先生〜、お久しぶりです。メールありがとうございます。
もちろんI remember you! ですよ。廊下に立ったのとか、beautiful sunday歌ったのとか、懐かしいですねー。
あのとき一緒に歌ってた鈴木Jも元気ですよ。。
母が亡くなったのが2008年の2月で、もう3年たちます。
結婚したのが2009年の10月で、娘が生まれたのが2010年の6月11日(うちの親父とおんなじ誕生日!)で、娘はもうすぐ1歳になります。母にも孫は見せたかったですが、父は母の生まれ変わりだと思っていて、とても大切にしてくれてます(月に一度は東京に来る)。。


スポーツ万能、生徒会長、そしてユーモア抜群のお喋りでオモシロい男の子だったS君は卒業式に答辞を読んで自らと卒業生全員を涙でむせび泣かせた、情の厚い男の子だった。C高校では恒例の運動会応援団長で活躍、東大理Uへ進んだ。ついでに、彼のfacebookのアルバムより、現在の貫禄の姿が。優しそうなお嫁さんとhappyショット!
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                 現在のS君

 まだまだなつかしく貴重な数人とのコンタクトが得られたのだが、「友達」が自分のWall上に出す情報は共有でき、また「友達」が「アルバム」にアップしている写真を見ることもできる。例えば元ALTのジョシュアさんは facebook マニア? たくさんの写真(特に息子さんのCalebの写真)を常に新しくアップしているので、カナダに住むご両親や世界各地の友人たちとこのfacebookを通じて(特に自分の活動や家族の写真を通して)コミュニケーションをはかっているのだろう。

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     ジョシュアさんはとってもオープンマインドの人だ  

facebook は、つまり世界規模のネットワークで、世界の人と友達になれる可能性がある。英語の勉強にもなるだろう。でも、日本国内だけでも、同学年や同窓の人たちの消息を検索したり、友達の友達から自分の知り合いを見つけたりもできる。

Wikipediaによると
しかし、日本では普及が進んでおらず「フェイスブック後進国」とも呼ばれている。これらの要因として、「日本人と海外との人間関係の数」がそもそも少ないこと、mixiなどの既存SNSがユーザーを押さえていること、「グローバルなネットワークというメリットが日本人にとって弱い」ことを挙げている。さらに、Facebookのアカウントは実名と本人の顔写真、実社会でのプロフィールの登録が義務づけられているが、「それらを誇れる人にとっては有効なのですが、コンプレックスを感じる人にとっては見えない壁を感じる」と指摘している。さらに「英語でのコミュニケーションができなければ、メインとなるネットワークの中に全く入っていけません」とも指摘している。日本国内の利用者数は2010年12月現在、約308万人[9]。

日本国内だけでネットワーク作っても・・というわけだが、それなりに楽しいし、そういう範囲では英語など関係ない。
今、日本の高校生たちはどうだろう? 教室で尋ねてみると、facebookに参加している生徒はほとんどおらず、一方さすが留学生たちはみな入っていた。しかし、「友達」100人以上はざら、あるいは500人なんていう人もいるが、彼らは友達の数を楽しんでいるに過ぎないのでは。1回友達になってやりとりすると、コミュニケーションは結局はそれで終わりというのも現実かもしれない。深く長い関係ではなく、手軽な広く浅い人間関係の場かもしれない。

 あ、そうそう、友達とのメッセージ交換だけでなく、情報share という意味で、何故か、私のWall(掲示板)にはUSA大統領のオバマさんからのメッセージやスピーチが動画入りで週1,2回届く。もしかして私が自分のプロフィールの「尊敬する人」に気軽にKennedyとかBarack Obama とか書いたためかもしれない。facebook からのサービスかな?Michael Jacksonのサイトのも届く。

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今日も新着http://www.facebook.com/home.php#!/barackobama
このサイトの写真をクリックすると彼のnice Englishが聞けるのは嬉しい(英語の勉強。彼の発音や英語はperfect と言われている)
We've been asking a lot of you—and in the first major test of this campaign, you delivered. Over 495,000 folks donated to own a piece of this campaign in its first quarter. Thank you. As a reminder of why we're working so hard to get the President re-elected, take a look at a short video from earlier this week........
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こだわりの音 

2011/07/01 22:32
最近、たまたま、クラシックに耳を傾けることが重なった。

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           T・K さんのこだわりのオーディオルームで

またまたKさんのオーディオルームを訪ねる機会があった。Kさんの昔の職場の楽しい仲間の方々が「噂だけでなくこの目で見てみたい」というわけで、親戚の私もまた同行。こだわりのオーディオルームに入るや否や、「お〜〜!これは何という部屋・・・!」という歓声からスタートし、2時間余り、オーディオルームの虜になった。

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      Kさんが本もののコンサートで録音したクラシックを聞くのだ

なんと言ってもすごいのは、コンサートの会場の天井からマイクを吊るして録音(そのマイクの位置も録音の仕上がりに影響するとか)、それをこの不可解な機器とパソコンを使って、本もの、いや本ものが理想とする音にまで近づけるのだそうだ。 大きな2つのスピーカーから出る音はとてつもなく鮮明な素晴らしい音・・・と素人にも感じはする・・。

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         ドビッシーやオペラが流れる・・・♪     
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          ベストサウンドを聞かせようとハッスルするKさん

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    あまりの nice sound に酔いつぶれたお客さんたち   
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          演奏がパソコン上には音波となって表れる

Kさんの目指すものは、市販のCDよりももっと本ものに近い(本もの以上の)CDに仕上げること。細部の音までに注意を払い、彼の目指す音にまで操作するので、Kさんは「録音は芸術だ」と言う! クラシック音痴の私にはそのこだわりが全部理解できず、かなりマニアックな世界だと思ったりするが、彼の目指す音が完成した時の至福のときはどんなものかは理解できる。今日もたっぷりと素敵な音を楽しみ耳に焼きつけた。

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     そして御三人はこのびっくりルームで旧交をあたためた・・・・


 さてさて翌日はまた、お友達のMさんからクラシックコンサートのチケットを頂いた。 ジャパン・ストリング・クヮルテット 名曲コンサート。会場は市民プラザのアンサンブルホール。

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        私が知っているのはチェロの岩崎洸さんだけですが

本当は3月18日のコンサートだったが、東北大震災のため延期された。
やっぱり本ものは素晴らしい!(と言っても私にはKさんのスピーカーの音響とほとんど比較ができないけど)。

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    岩崎さんのチェロとチェロを演奏する姿が素敵でした(Net 写真)
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                 カルテットの皆さん(Net写真)

第一バイオリン・・久保陽子     第二バイオリン・・久合田緑  
ビオラ・・・・・・・・・菅沼準二     チェロ・・・・・・・・・岩崎洸


曲は ベートーベン    弦楽四重奏曲第10番変ホ長調
    ヴェルディ     弦楽四重奏曲
    チャイコフスキー 弦楽四重奏曲 第1番ニ長調


チャイコフスキーの演奏曲の中の Andante cantabile が私の知ってる唯一の、しかも大好きな曲でした! チェロの岩崎氏は現在桐朋学園大学院大学教授(富山市)。2時間の演奏を終えて4人の奏者の方々は達成感と安堵の微笑で応えられた。もう何百回と演奏されてきたことだろうが、その都度、最高の音を求めて演奏に没頭する彼らの幸福に思いを馳せた。

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蛍を求めて

2011/06/22 23:09
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           源氏ホタルは強い光でゆっくりと飛ぶのだそうだ

八雲会のMLに、富山市の郊外に住むM先生から 「梅雨に入りましたが、みなさん如何ですか?我が家の周辺や熊野川河川敷には蛍が飛び始めました。ひとつふたつ飛ぶもをかし・・・・、その10倍位です。」という蛍便りが届いた。

というわけで、昨夜、暗闇濃くなりつつある8時前に、「見たい!」という願望強きKさんと、そのご主人やお孫さんたちと私も2台の車で(カーナビで)蛍見物に行くことになった。

20分ほど南に走って8時過ぎ、田園の中のM先生のお家に到着。同じ八雲会の若きJ子さんも到着していた。M先生は2年前まで県立高校の校長先生だったが、さすが理科の先生、ただではホタルを見せてくれない

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       さっそく M先生(右)主催の「ホタル教室」が始まる

「みなさん、はい、こちらへ集まって・・・いいですか、ホタルには源氏ボタルと平家ボタルがありまして〜」と、ヘッドライトを着けた本格的探検隊長モードの先生の前で、思わず生徒になってしまった私たち。今夜の生徒は上は83歳のKさんのご主人、下は12歳(中一)のKさんのお孫さん。M先生の奥様も入れて総勢7人の生徒たち。先生のインストラクションを楽しむ。

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        まず家の横の用水の中を覗き、カニや水の生物を確認
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         次に先生の車に先導され いよいよホタルの川へ

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ここは神通川の支流の熊野川の岸 対岸の明かりが非日常的な気分に・・

夜空には星が散らばり、辺りには、猛烈なカエルの合唱が響き渡る。そして大きな熊野川のせせらぎの音。そしてこの草のにおい! 闇の中で、匂いで感じる河原一面の草。むせかえるような草の匂いが闇の中で強烈だ。それらの音や匂いに囲まれて、何だか郷愁、それも人間の古き昔のふるさとが、身体の中に不思議な気分で湧き上がってきた。  やがてホタルがちらちらと飛び交い始めた。飛んで上昇していくホタルは、やがて星なのかホタルなのかわからなくなる・・・。

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            ハーンの怪談の世界みたい・・

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        「あー、ホタル! すごい、すごい、あっちに・・ここにも」
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          「これは大きい・・源氏ボタルですね」「どれどれ」
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          「これはオスです」「はぁ・・・」
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       9時過ぎるとホタルはさらに集まって1度に10匹は見える
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            「あ、飛んで行った」
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           この水門のところに特に群がっていた
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チカチカと弱く細かい光で飛ぶのは平家ボタルだとか〜〜滅びた平家はホタルのネーミングにまで影響する・・・
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水門のコンクリートの上でホタルを撮れたけど光っているのがわからない
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        Kさんご夫妻は土手の上から仲良く私たちを見ていました
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 「かわいいわね、ホタル・・・」 歌人のKさんはどんな1首を詠むのだろう

9時半・・・ホタルの乱舞をあとに帰途に着く。何十年ぶりかでホタルを満喫した夜だった。昔、信州の我が家の傍のちょっと大きな川でホタルが舞い、祖父や、あるときは父が、ほうき(いわゆる箒の木でできた)でホタルを取って、水を吹きかけたスギナと一緒に金網の虫かごに入れてくれ、枕もとに置いて寝たっけ。明かりを消してホタルの光を見つめながら眠った。 籠の中のホタルは独特の匂いを放つ。なつかしい匂い。 そしてホタルの灯りで勉強した・・・・覚えはないが。 遠き日は、そしてあの日の父や祖父は、みんなどこに行ってしまったのかな・・・・。
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浅野 忠信 ・・・NHK「あさイチ」生出演

2011/06/19 23:09
金曜日から私の休日は始まる。いつものようにNHK「おひさま」を新聞読みながら見たあと、そのままテレビの前に座っていると、「あさイチ」という生活的報道番組浅野忠信さんが、金曜日にやる“プレミアムトーク”に登場していた。え?どうして今? NHKに? 今日の浅野さんの話題は何だろう?

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             久しぶりの浅野 忠信さん
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           3人のレギュラー司会者と話がはずむ

プレミアムトークに出演する人は、いろんな分野で今話題の人か、新しいNHKの番組が放映されるときの主人公、または今評判のNHKドラマの出演者、と思っているが、浅野さんはどれだろう? 結論はわからなかったが、1つは、彼がアメリカのハリウッド映画の主要な役に出演し、その映画「マイティ・ソー」が7月2日に日本でも封切られる、ということらしい。これまでもハリウッド映画に出演した日本人は何人もいるが、これはアメリカでも評判の映画であるとのこと。

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      ハリウッド映画「マイティ・ソー」でソーの護衛戦士ホーガンの役

しかし、彼のハリウッド初進出ということが今日NHKに出演する理由にはちょっと弱いけど・・・?
ザ・テレビジョン ENTERTAIMENT NEWS によると
浅野はアメコミを映画化した3Dアクション大作「マイティ・ソー」に出演し、ハリウッドデビューを飾った。「マイティ・ソー」は、神の世界から人間界に追放された最強の戦士ソーが、神の世界と地球に訪れる危機を救うため戦う物語。ソー役を務めるのは新星クリス・ヘムズワース。そして地球の科学者のヒロインを、ことしのアカデミー賞主演女優賞を獲得したナタリー・ポートマンが演じている。同作は一足先にアメリカで公開され大ヒット、日本でも7月2日(土)からの公開が決まっている。浅野はソーの護衛のひとりである戦士のホーガンを演じている

「剱岳・点の記」以来、燃え尽き症候群になった私は、山から降りてきてすぐ撮った「ヴィヨンの妻」などの彼の映画を見ていなかった。「剱岳」の木村大作監督は次回作も浅野忠信にフォーカスを当てていた。彼の沈黙の佇まいや彼の背中に、高倉健の後姿を感じているのだという惚れ込み様だった。確かに、間近で接した感想は、物静かで落ち着いていて、奥行きのある男らしさを感じる若者・・だと思った。が、実際の彼は、今日のインタビュートークのように、ファッションや若者音楽に関心のある、挑戦欲旺盛な現代の都会派青年なのだ。今日も話していたように、勉強なんかしたことない、とか、アカデミックで哲学的なものとはあまり結びつかないキャラクターのよう?だが、しかしそれなのにあの低く響く声と静かな表情の深さはナンなんだ、と思ってしまう・・。

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   「剱岳・点の記」主人公役 芦峅寺の島家でのロケ 2007年10月
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2007年9月天狗平山荘で 立山ロケスタート(このとき’浅野忠信’という名前も知らなかった。自然体で爽やかな人だと思った。)
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        「剱岳・・」ロケ 芦峅寺雄山神社 2008年4月
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東映主催「剱岳・点の記」感謝のつどい(名鉄トヤマホテル)2009年1月

彼の淡々とした清新な表情は、「剱岳・・」の柴崎芳太郎役にぴったりだが、でも観客(私)が求める浅野は、『モンゴル』(2008年 アカデミー賞ノミネート)という日露合作映画に主人公チンギス・ハーン役で出演した浅野忠信のほうかもしれない。彼の野生美を存分に発揮した本当に素晴らしい映画だった。彼のどこにそんな迫力があったのか、と思わせる、モンゴルの大平原を駆け回るスケールの大きな役で、モンゴル語と乗馬は死に物狂いで挑戦したそうだが、みごとな出来栄えだった。その公開はまだ「剱岳」撮影中のことだった。『モンゴル』のセルゲイ・ボドロフ監督は浅野に「内面から発する光のようなもの」を感じ、「この役を演じられるのは浅野しかいない」と浅野を抜擢したと聞いている。

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        『モンゴル』 チンギス・ハーンを演じる浅野忠信
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         「モンゴル」アカデミー賞にノミネートされ授賞式に

今度の映画「マイティ・ソー」
の原作はアメリカのアニメだとか、そういう点はついていけるかわからないが、やっぱり予告をちらっと見る限り、アングロサクソン系の中で、彼の日本的なきりりとした顔が光っている。恐らくCGを駆使した人工的背景だろうけど、映画は「モンゴル」的な迫力かも知れない。久々に7月2日が大いに楽しみ。

ところで、正直な話、私だけの狭い視野の中で感じていたのかもしれないが、俳優浅野忠信はどこかへ行ってしまったのかなぁと思っていたので(最近の赤塚不二夫役なんて絶対イメージダウン)彼がこうしてNHKに登場したのは驚きだった。今、なお何故?と思うのだが、同じ「あさイチ」の番組の中で、8月3日の総合テレビで、浅野忠信のお祖父さん(アメリカ人)のルーツを辿る特別番組が報道されると予告していた! それは浅野が有名だから?それとも彼のお祖父さんは孫の知名度と関係なく、何かマスコミをひきつける歴史や事実を持っている人だったのだろうか??これも大いに楽しみである。

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     8月NHKで、亡くなった彼の祖父のルーツをたどる番組が

ということで、「あさイチ」では、浅野忠信さんの今日までの簡単な「歴史」が写真とともに・・・・。

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18歳で結婚したお母さんのお父さんがアメリカ人 左は兄の久順さん
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             デビューは「金八先生」  
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              「金八先生」出演中の彼  
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            兄のKUJUNさんが弟を語ります    
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インタビューや今までの映画を振り返って、浅野さんは天性の俳優感覚を持った人なんだと感じる。でも、「モンゴル」の時はモンゴル語と乗馬を、今回は寡黙な役なのであまりセリフはないが、英語を必死で勉強したとか。演じること、表現することに天性の力を信じつつ、努力を尽くし、且つ楽しんでいる様子が素敵だった。生活に縛られない「自由人」は、離婚したex-wife のCHARAさんについても謙虚に感謝の気持ちを語っていた。彼はこれからどんな発展をするのだろう・・。

Yahoo!映画 「マイティ・ソー」浅野忠信単独インタビュー   
   http://movies.yahoo.co.jp/interview/201106/interview_20110627001.html

 彼をもっと知りたい人は
Wikipedia 浅野忠信 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%BF%A0%E4%BF%A1 
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今に生きる 八雲・はる・恒太郎・・・・ヘルン文庫の血脈

2011/06/13 00:59
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            2011年度第10回富山八雲会総会
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            受付では会誌「へるん倶楽部」も販売

6月11日(土)の午後は、富山八雲会の今年度の総会が県民会館で行われた。今年は富山八雲会が創立されて10年という記念の総会だったがまだ他にメモリアルな年でもあった。今年のテーマは 
「今に生きる 八雲・はる・恒太郎」

     富山八雲会創立10周年
記念  馬場はる 生誕125年        
     南日恒太郎生誕140周年


例年の総会(行事や会計、人事の報告など)のあと記念講演が行われた。
ヘルン文庫の蔵書の主ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と、文庫が富山県(旧制富山高等学校)にやって来たキーパーソンの馬場はる(私財を出して蔵書を買い寄贈した人)、そして南日恒太郎(ハーンの蔵書をぜひ富山県に、と情熱をかけて誘致した旧制富山高校初代校長)の、それぞれお孫さんたちが講演された。

 まず、八雲のお孫さんは有名な小泉時さん(逝去)や曾孫にあたる小泉凡さんではなく、八雲の次男の巌さんの長男で稲垣昭男さん。横浜市に在住し、今は静岡県焼津市小泉八雲記念館顧問や横浜市の子ども読み聞かせボランティア会員をされている。昭和7年生まれ、東北大経済学部のご出身だとか、もう80に近いかただったが、初めてお目にかかった印象は、「あっ」と思わせる八雲の面影を持ったかただった。優しく謙虚に語りかけるお話はとても印象的だった。
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                 小泉八雲(1850〜1904)
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            祖父八雲について語る稲垣昭男さん

また、八雲の次男で昭男氏の父である稲垣巌は母親セツ(八雲夫人)の養家稲垣家へ養子にいった。アルバムで見た限り、また昭男氏も講演でおっしゃっていたが、巌さんはとてもハンサムな男性だった。やはりハーンが西洋人であったので、日本人とは一味違う容姿である。彼は京都大学を卒業後、英語教師になったが、癌のため40歳で他界した。
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             巌の写真と、巌の思い出を綴った書

 さていきなりメインゲストの稲垣男氏に飛んだが、ヘルン文庫の立役者、岩瀬の廻船問屋馬場家の未亡人はるさんのお孫さんの馬場是久氏が、それぞれ40分スピーチの最初に話された。馬場氏は昨年から富山八雲会の三代目の会長を務める。
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             馬場はるさん(明治19年〜昭和46年)
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         はるさんのお孫さん馬場是久氏(富山八雲会会長)

はるさんは明治19年、朝日町泊に生まれた。15歳で「北陸五大船主」の一人とされた馬場家3代目の馬場道久に嫁いだ。一男三女をもうけたが、夫・道久が40歳で他界、馬場家は、当時34歳のはるの手に委ねられた。馬場家をまもりつつ、回船問屋の事業を女手ひとつで拡大する。そんなはるさんが、大正12年に100万円を県に寄付、7年制の高等学校設立を願い出た。富山市蓮町に5万7千平方メートルの敷地を確保、開校のめどがつき、大正13年、東岩瀬町の仮校舎で授業を始めた際、はるさんは開校を祝って、ヘルン文庫(ラフカディオ・ハーンの蔵書で洋書2071冊、和書376冊)も寄付する
是久氏は、昭和46年に亡くなった祖母はるさんとの思い出も多い。

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     熱心に耳を傾ける 富山大学新学長、新図書館長さんたち

 さて、最後にまとめられたのは、まさにヘルン文庫を旧制富山高校に招いた初代校長の南日恒太郎さんのお孫さんの南日康夫氏。筑波大学副学長をされた、富山八雲会の前の会長さんで、ご高齢になったので今はもっぱら東京にお住まいであるが、大事なときに東京から駆けつけてくださる。

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           旧制富山高校校長南日恒太郎(1871〜1928)